第25代専如門主 日高別院ご巡拝の様子(2016.4.28)

今年の平成28年10月から平成29年の5月にかけて京都の西本願寺で伝灯奉告法要が修行されます。 その法要に先立って、専如門主が昨年の平成27年10月より全国の教区、別院、教堂へご巡回・ご巡拝されており、4月28日 日高別院にご巡拝されました。
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日高別院トピックス

日高別院にて、みどう花まつり・親鸞聖人降誕会・湯川忌法要が執り行われました。
本堂では、御坊幼稚園の園児と一緒にお勤めし、その後町内パレードにでかけました。
 
別院西門を出発して、中町を北に進み、大浜通りを越え、日吉田通りを南に行き、そして別院の東門に帰るコースです。
天候にも恵まれて、お稚児さん88名と楽団、そして僧侶もパレードに参加して、楽しいひと時を過ごすことができました。

 
日高別院にて、みどう花まつり・親鸞聖人降誕会・湯川忌法要、そして御坊幼稚園創立100周年記念法要が執り行われました。
本堂では、御坊幼稚園の園児と一緒に「らいはいのうた」をお勤めし、その後町内パレードにでかけました。
 
いざ、パレードに出発です。 別院西門を出発して、中町を北に進み、大浜通りを越え、日吉田通りを南に行き、そして別院の東門に帰るコースです。
天候にも恵まれて、お稚児さん88名と楽団、そして僧侶もパレードに参加して、楽しいひと時を過ごすことができました。

 
2014年12月6日、日高別院の報恩講のご満座の様子です。
報恩講法要としては4日から6日まで計3日間厳修されます。最終日の6日は仏教婦人会の研修やバザーなどもあったせいか、大勢のお参りでした。  
8月4日から5日にかけて、内藤智康和上を講師に迎え、日高別院で夏安居が開催されました。和歌山県内はもちろんのこと、遠くは山口県からの参加の方もおられました。
今年の夏は日照時間が少なかったせいか、昨年に比べ過ごし易い安居でした。
 

日高別院のご紹介

日高別院 天文9年(1540年)に亀山城主であった湯川直光によって吉原(現美浜町吉原)に建立されました。これが吉原坊舎と称されました。 後の天正13年(1585年)に豊臣秀吉の進攻によって吉原坊舎は焼かれ、湯川一族は本尊を持って熊野に逃れるが翌年には日高に戻り 薗浦の椿原に仮堂「薗坊舎」を建てられました。
文禄4年(1595年)紀伊国主浅野家重臣・佐竹伊賀守の尽力によって薗浦と島村の荒野を開き、薗坊舎を移し日高坊舎を建立しました。 これが現在の日高別院でございます。以来「御坊さん」と呼ばれ、御坊市の名の起源となりました。文政8年(1825年)に現在の本堂が再建され、 1877年(明治10年)本山より本願寺日高別院の称号をうけ現在に及んでいます。また、境内には県の天然記念物に指定された樹齢400年あまりの イチョウの巨木がそびえています。

【所在地】 〒644-0001  和歌山県御坊市御坊100
TEL0738-22-0518   FAX0738-24-2577
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日高別院の身代わり阿弥陀如来

身代わり阿弥陀如来 日高別院のご本尊は阿弥陀如来です。
別名「身代り阿弥陀如来」とも言われる寄木造りのこの像には、ノドより少し下の部分、胸の中心線にちょっとした穴があります。
天正13年(1585年)、秀吉の紀州攻略で、御坊亀山の城主・湯川直春は、熊野へおちのびていきました。神社、仏閣はほぼ焼き払われましたが、吉原坊舎にあった本尊の阿弥陀如来像は一族とともに熊野に逃れて無事でした。 翌年、本尊を持ち帰りましたが、10年ほどしてなぜか姿を消してしまいました。有田の方にあることがわかり、すぐに取り戻そうということになりましたが、警戒が厳しすぎて近寄れません。このとき、糸田九左衛門という男が単身乗り込み、像を持ち帰りました。追手に無数の矢を射かけられた九左衛門。「もう命はないと思うたのに。よくぞ帰られたもんだ」と、背負っていた仏像を下してみてびっくり。如来さまの胸に矢が突っ立っていました。 「ああ、もったいない。人間の身代りになって下さるなんて」 これが胸の穴のいわれです。

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