御坊組 寺院紹介 vol.23


安楽寺

     

 安楽寺の紹介に当たり、安楽寺の前住職、伊藤隆文の文章を引用させていただきます。



 仏壮会報に安楽寺の縁起を書けといわれましたが、寺の歴史については全くといっていい程知識がありません。それで仕方なく、御坊市史から引用させて頂くことにします。

 それによると、文明年間(一四六九〜八七)和佐玉置氏の家臣伊藤知部が本願寺蓮如に帰依して六字名号を請いうけ、自宅を道場として開いたと書いてあります。 その後玉置氏に仕えながら累代道場を相続し、元和六年(一六二〇)紀伊藩主徳川頼宣が金屋淵に川狩りをした折、雨のために当寺で休息したことから、歴代藩主来郡の時には特に住職に謁を許されたそうです。
 寛永十年(一六三三)に木仏本尊の安置、寺号公称が免許され、当寺中興の念西が本堂を再建したそうです。 鐘楼建立は正徳年間(一七一一〜一六)で、これは日高地方でも早い方だそうです。

 以上が大体御坊市史からの引用ですが、紙面が大幅に余ってしまいましたので、あとは私自身が人々から聞かされたとりとめのないことを書いてみます。

 今の本堂は、私の祖父にあたる玄隆の代に再建されたもので、門徒の人達と共に相当に苦労したらしく、その頃のことを知っている人達は、金もないのに(野口村全体が貧乏だったということです)よく建ったもんやといっています。 門徒の人達は何日も勤労奉仕をしたそうです。この時、二人のおばあさんが白い着物を着て浄財を集めに日高郡を廻ったそうですが、集った浄財を見て、これで天井がどれだけ張れるとか、瓦がいくつできるとかいっていたそうです。 この二人は、家が裕福で、それで堂々と浄財を集めに廻ることができたんやと、笑いながら話してくれた人がいます。
 小さい頃、私達はよく、この時の苦労がもとで祖父は早く亡くなったのだと聞かされましたが、成長して檀家の人達と話をすると、そうとばかりはいえないことがわかってきました。 それを書くと、亡くなった祖父が咳ばらいをしそうな気がするのでやめておきます。

 あるとき、御坊に立ち寄った森鴎外?を多分強引に当寺に招待したことがあって、東京から偉い人が来るといって門徒の人達に本堂に集まってもらい、 「森ホーガイ氏をご紹介します。ホーガイ氏は、またホーガイ氏は」と、森鴎外のことを紹介した後、話をしてもらったのですが、集まった人達は皆、森ホーガイがどこの誰でどれだけ偉い人なのかさっぱりわからずじまいで帰ったそうです。
 五十年位たった後、そのうちの一人が、「あれは森鴎外だったのではないか、きっとそうに違いない。」と語ってくれました。

 子供達にも相当厳しいしつけ方をしたらしく、私の叔父や伯母が帰って来た時など、本堂に入った時の態度は厳粛そのもので、今の若い者より余程坊主らしいところがありました。 その点、私も父も及びません。その父が祖父の跡を継いだのですから皮肉なものです。
 今の庫裏は、父の代に建てられました。私が小学生の頃のことです。父も早く亡くなりましたが、私は子供達に、父が早く亡くなったのは事裡を建てた時の苦労が原因だったといって聞かせる積りでいます。
 それから私ですが、幸い組父の代で本堂を、父の代で庫裏を建ててくれていますので、私の代では建てるものが何もありません。 前の二人のように、苦労の種がないということになります。だから私が早死をしたら、私の子供が孫達にどういう理由をくっつけて話してくれるのか、ちょっと気がかりです。

住職  伊藤 隆文


追記
 安楽寺がこれまで続いてきたのもひとえにご門徒の皆様の支えがあってこそのことです。これからも日々精進していきたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。





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