御坊組 寺院紹介 vol.4


長楽寺


 寺に伝わるところや日高町誌などによると、香華山長楽寺の開基は五百年ほど前、室町時代後期の大永年間(一五二一〜一五二八年)とされている。

  

 祖の刑部左衛門は母親とともに第八代宗主の蓮如上人に帰依し、日高郡串村に道場となる庵を結んだ。証如上人(第十代宗主)より下付された木像尊形を自庵に安置し、戦乱に斃れた一族郎党を俗形で供養するとともに、当地の人々の依頼を受け仏事を営んでいたとされている。

 天正四年(一五七六年)、顕如上人(第十一代宗主)は、織田信長に対抗するため雑賀党に助援を求められた。紀州は蓮如上人以来、帰依する者も多く、刑部左衛門も老齢をおして子の介右衛門(祐道)とともに、和歌山弥勒寺山に立て籠もったと伝えられている。

 第二代住職の常俊の代から僧形となり、寛文十年(一六七〇年)に本堂を再建した。棟札に「再建は寛文十年 現住常俊」と書かれ、「寛文拾年戌六月」の文字が見える鬼瓦も残っている。

 延宝四年(一六七六年)二月十一日に長楽寺の寺号が許可され、第三代の是三の元禄五年(一六九二年)一月に寂如上人(第十四代宗主)より阿弥陀佛立像が下付された。
 第五代智海の寛延三年(一七五〇年)に本堂を再々建、平成元年の修復を経て、今日に至っている。


【玉泉居士之碑】

 本堂の東側に高さ一メートル余りの石碑が建てられている。
 正面には「玉泉居士之碑」、側面には「大池開鑿発起者 通称五郎右衛門 明治三十五年春建之 田人中」と記されており、日高町の史跡になっている。

 今から三百年余り前の元禄時代、志賀村久志(当時)の一帯は水利が悪く稲作に適さず、村民は畑作や薪炭をなりわいに貧しい暮らしをしていたと伝わる。
 村の窮状を見かねた五郎右衛門は村人をまとめ苦難の末に溜め池「大池」を完成させた。
 ところが、紀州藩は掟に逆らって過大な溜め池を築造したと咎め、五郎右衛門は和歌山の獄につながれた。村人の嘆願もむなしく、五郎右衛門は元禄十二年八月に非業の死を遂げ、家族や親族も追放されたとされている。
 世の人のために大池築造という偉業を成し遂げながら、不条理な仕打ちにさらされた五郎右衛門や周囲の人々の無念さはいかばかりであったことであろう。

 こうして五郎右衛門の記録は消されてしまったが、今日に至るまで大池の水は志賀地区の田畑の灌漑に利用され続けており、五郎右衛門の思いはこの地を潤し続けてきている。人々の五郎右衛門への感謝の念は時代を越えて受け継がれ、二百回忌を迎えて顕彰碑が建てられ、毎年のお盆には法要が営まれている。


【参考文献】
「続日高郡誌」:昭和50年3月 編集:続日高郡誌編集委員会 発行:日高郡町村会
「日高町誌」:昭和52年12月 編集:日高町誌編集委員会 発行:日高町



長楽寺 住職  田伏 洋



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