御坊組 寺院紹介 vol.6


源行寺


 源行寺は通称「名屋の源行寺」と言われていますが、正式な所在地は、御坊市薗786番地にあり、山号を「南龍山」と称します。

 市史等によりますと、当寺の草創は文明八年(1476年)蓮如上人が名屋浦の湯川次郎左衛門の陣屋に宿をとられ、蓮如上人より教化を受けた次郎左衛門が真宗に帰依し、永正八年(1511年)自宅を道場にしたことに始まります。

 元和六年(1620年)七月洪水のため一山流失し、現在地に本堂を移転再建。明暦四年(1658年)源行寺なる寺号公称の許可を得ました。
 その後火災、水害等により、何度か被害を受けた後、明和八年(1771年)から安永七年(1778年)三月に落慶するまで、実に八年の歳月を費やして、総ケヤキ造り、七間四面の本堂が再建されました。

 当時の童謡に、「紀州日高の源行寺、京より南にないお堂」と謡われた程、見事な美術的建築物として、貴重な本堂でありましたが、昭和二十年(1945年)六月七日、第二次大戦中アメリカ軍の空襲爆撃で、本堂と、文政六年(1823年)再建の鐘楼、天保七年(1836年)再建の庫裡、明治二十一年(1888年)再建の表門など、すべてが破壊されてしまいました。
 この空襲では死者九名、当時周辺の民家九戸も全壊で、当時でも稀な寺院を直撃した空襲として、人々を震え上がらせたそうです。
 この空襲のことは有吉佐和子の小説「日高川」にも記されています。

 現在では、境内のお墓の一部に爆風で破損した痕や、樹高二メートル余りのところで、これも爆風で吹き飛ばされたタブノキなど、当時の痕跡が今も残っています。
 なお、この空襲でも幸いにご本尊は被害を免れました。

 また、戦争で供出していた文政六年(1823年)鋳造の梵鐘が、終戦により無事返還されてきました。
 現在の建物は昭和二十七年再建された庫裏兼本堂で、終戦直後の物資難の折、一時は再建断念の話もありましたが、檀信徒の皆様のご尽力により、再建されたものです。

 平成十二年は隣に庫裏を再建したのを契機に、本堂の屋根等の修復を行い、平成十四年には鐘楼が再建されました。
 とりわけ、鐘楼の再建は、当寺にとって戦後平和な時代が続いたことの総決算として、取り組んできました。

 平成七年から平成十四年に鐘楼が再建されるまでの間、古い電柱でやぐらを組み、大晦日だけジャッキで梵鐘を釣り上げた、仮設鐘楼での除夜会でしたが、毎年百人を超える若い人達が除夜の鐘を突きに来てくれ、にぎやかな除夜会となりました。

 そんな中での鐘楼の再建となり、他の寺院のような立派な本堂がない中で、ようやくお寺らしい形を整えてきました。
 将来本堂の再建も、視野に考えていかなければなりませんが、先ずはご門徒さんが気軽に集える場づくりに努めたいと思います。



源行寺 第十五世 湯川 憲治








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