御坊組 寺院紹介 vol.10


常徳寺


 美浜町和田にある常徳寺は昨年夏、第13世住職湯川暢夫師が急逝され、現在無住となっています。庫裡等、本堂以外の建物は積年の損傷が著しく、今、そのすべてが除去されております。法務は隣寺の三宝寺住職湯川逸紀に託されています。
 常徳寺の寺紹介については現在、責任をもって筆をとる者がおらず、かつて組仏壮が昭和61年に発行した「こころのふるさと」の記述(常徳寺第12世湯川龍暢師による)を以下に抜粋することしかできないことをお許し願いたいと思います。(写真は現在)

 続日高郡誌によると、常徳寺の開基は慶長年間前後(1500年〜1600年)にさかのぼるものではないかと言われている。古い過去暢には、第1世円頓・第2世浄念・第3世常圓と記帳されている。
 第4世浄玄の寛文8年(1668年)に、本山より常徳寺の寺号公称を許可された。更には元禄5年6月(1692年)に木仏本尊・阿弥陀如来御下向と記録がある。本山より下付された常徳寺寺号免許の掛軸が遺されてあり、これより真宗寺院として始まったのである。
 この際、介添え役として田井常福寺殿が御供して本山に上ったとの記録も過去帳にある。又、第4世浄玄の坊守として、入山三宝寺第1世祐賢の息女が常徳寺浄玄に入室しているが、その浄玄の墓が常徳寺に明らかでなく三宝寺に遺されている。今日はもとより、昔日の三ケ寺の御縁を思わせる史実である。
 貞享3年(1686年)に道場を、延享元年(1774年)に庫裡を建立し、現在に近い本堂は宝暦4年2月(1754年)に建立された。
 昭和49年大棟が白蟻の被害を受け、大修理をした、棟覆輪や熨斗瓦に異なった年代が記されていて、幾度も修築や増築を繰返した模様である。
 第7世浄哲が早世し、第8代浄藝が高家西圓寺より入寺し、中興の祖として現在の寺門を発展させた。この第8代浄藝は、日高別院第5世秀賢の子にして、兄は第6世賢藝として日高別院を継ぎ、弟の浄藝が自庵である高家西圓寺より常徳寺に入寺したのである。(湯川光雄・北裏虎楠共著「湯川一族考」より)

 日高郡誌・続日高郡誌には第7世浄哲の入寂(天明3年9月7日)(1783年)後40年間無住であったと記されているが、上記2冊の出版後に、第8世浄藝が勧修寺宮より権律師に宣任された書状が見出され、寛政2年10月23日とある所から、7世より8世へ余り時を移さず法統を相続したものでないかと推察される。

 第11世浄暢は、京都・東京で研鑽した深い学力と高潔な人となりを敬慕され、郷土の熱望に応え、俊秀の教化育成に当り、郡内初の中等教育機関・「私立常盤義塾」を創立した。明治41年より昭和8年7月8日53才にて遷化するまで、約30年間に一千名におよぶ才覚達が如来の慈光の中で雄飛し、社会の各領域においてリーダーシップをとっていった。常徳寺は教育の中心地として大きく社会的使命を果たしてきた。
 境内には塾長浄暢の頌徳碑並びに常盤商業・常盤農業学校校長の森彦太郎先生の頌徳碑が建てられてある。更に寺の北側の旧校舎跡に、昭和53年11月「常盤義塾之跡」という学校碑も建てられ、その偉業を永久に遺している。

   
常徳寺第12世住職 湯川龍暢    

 現在、常徳寺の本堂を除く境内地のすべて(墓地もふくめて)は和歌山地方裁判所が選任した「相続財産管理人」(弁護士)が管理しています。それらの最終的な帰属が定まるのは後日となります。
 当面、常徳寺への連絡は住職代務である三宝寺住職湯川逸紀(電話0738ー22−6370)までよろしくお願いします。




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