御坊組 寺院紹介 vol.18


光徳寺


       

 現住職玉置信夫は第十九代を継承し、漁業者と共にお念仏を慶ばさせていただいております。

 当寺の記録等をたずねると、古くは海光山金剛院金蔵寺といって、真言密教高野山金剛院の末寺で、「金胎両部ノ曼陀羅ニ於テ修行ノ人ノ為ニ庶詮表徳ノ理ヲ分チテ出離ノ要法ヲ教へ来レル真言繁昌ノ勝地」と書かれ真言宗でありました。

 初代道名という住職が、本願寺八代蓮如上人冷水浦の喜六大夫(了賢)を訪ねられし折、値遇する法縁を得、浄土真宗の教えこそ時機相応の教法と、真言密教を捨てて、他カ易行のお念仏のみ教えの真宗へ転派したと伝えられております。
 なお当寺の門徒は、この住職道名師の勧化によって残らず念仏の行者となりました。道名の一子了名のとき、本願寺第九世実如上人より阿弥陀如来の大幅の絵像と六字名号を下附され、それを開基仏として今に遺っております。

 当寺第四代住職了春の頃、本願寺第十一世顕如上人の時代、かの有名な石山合戦が勃発。
その折、粉骨の恩に報いんと石山本願寺に七ケ年詰めて、織田勢と戦い天正八年正親町天皇の勅命により和談成立し、顕如上人和歌山鷺ノ森に本願寺を移されたのであります。
 しかし上人第一の息男教如上人、その和談に背きなお大阪石山に止まりしこと"違勅の罪"として織田信長再度、教如上人を攻めたてたので、ついて教如和歌山鷺ノ森の父顕如上人を訪ね、門戸をたたけども父顕如上人宗門の将来を考え、父子義絶されたのであります。
 教如ただ一人、雑賀崎へ身をかくし、漁夫に助けられ小船に乗せられ阿尾浦まで逃げのびられたとのこと。その折、十六日間逗留された由、今もってその岩穴を"逗留穴"と称しています。

 当時、日高の城主湯川氏は信長よりの扱いによって、軍勢を引率して阿尾浦を攻めたてたのですが、その折、当寺門徒一同が得子の道具(鉄砲・刀・槍。弓矢)を持って応戦し、夜遅くまでかかり、夜中ひそかに"鈴木磐"より小船に教如上人をお乗せし、その船人、当寺四代了春、四郎兵衛、次良兵衛、十良太夫の四人が和歌浦へお送りしました。

 時に天正十三年三月。教如上人十六日間ご逗留の折、世話になったと、兵衛、形部、佐近、十良と名前を下附され、最近までその名前を上人より賜わったと伝えておりました。
 名前をいただきし折、当寺門族は"金は一代にして無くなるが、名は末代までのこる"といって拝受したことは今伝えられております。

 第五代住職了西の折、寺号本仏を拝領し海光山光徳寺と称するようになったのであります。

 さて、令和五年は宗門にとって一大事、親鸞聖人御生誕八百五十年・立教開宗八百年の年にあたり、宗門がこの機に前進するかどうかにかかり、全力投球すべき年であります。




 当地区も少子高齢化の波が押し寄せておりますが、このような時代にこそ、住職、門徒一同一体となり、お念仏の声高らかに前進すべき時ではなかろうかと存じます。


住職  玉置信夫    





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