御坊組 寺院紹介 vol.20


西円寺


 松谷山西円寺は当初日高町高家の地にて始まり、後に富安の地に移った変遷があります。まずは高家西円寺誌に記されている歴史についてご紹介させていただきます。

 西円寺、西内原村大字高家、興国四年本願寺第三世覚如上人の代、釋了忍房の開基に係り紀州に於ける真宗最初の地とす。
 其の開創の動機に就き寺誌に曰く。高家村の豪農某、誌歌を好む。或年偶々吟興を曳き、和歌浦附近の勝景を探らんとし途に紀三井寺に詣づ。
 寺僧告げて云う。今、和歌浦に本願寺宗主覚如上人留錫(りゅうせき)し給う、上人は世に名高き歌よみと聞く。汝行きて上人と語らずやと。

 某、喜び馳せて上人に謁を乞う。上人快く引見して詩文風流を談ずる事半日、やがて襟を正して宣うやう、斯くの如きの風流事何ぞ余が畢生(ひっしょう)の本領ならんや、抑々(よくよく)汝生死解説の問題は既に解決せるものありや如何にと、甚だ親切を極む。 某、おどろいて予何ぞ生死出離の要法を知れるものならんや。仰ぎ希くば上人予が為に要道を説けと。
 是に於て上人淳々として他力易行の道、念仏往生(成仏)の義を論示する所あり。某歓喜湧躍の念切也。 乃ち請うて弟子となり上人の度式を受けて了忍房といい、帰来念仏道場を高家西荘に創設し法味愛楽の自庵とすと。

 文明年間蓮如上人の紀州行化に際し、錫を当寺に留め自ら染筆する所の六字名号並に常用の竹杖一莖(いっけい)を住持了忍房に与う。又、当時、門徒を勧めし名帳一巻あり、伝えて今に寺宝とす。
 蓮如の子、実如上人父の遺蹟を巡拝して日高に来るや、また錫を当寺に移して法雨を注ぐ事数日、記念の為親しく六字名号を染筆して与う。

 某の後寺門廃頽、寛文の頃に至っては老尼妙意唯一人となりしが、某の頃御坊西円寺祐賢は高家村竹のはな塩路某の女婿なりしかば、某の斡旋によりて遂に妙意より祐賢へ道場を譲渡せり。某の證文次の如く。

      證   文
 一、堂、宝物仏具悉皆
 一、台所並納屋
 一、屋數(居)一畝十六歩、高一斗六升八合
 一、上畑十五歩、高七升二合五勺
 一、檀家 三十二軒

 右は私亡夫病死以後年久敷無住に罷在侯処未だ跡式相続之人無之侯付此度竹のはな塩路氏の扱を以此道場株悉皆某御許へ相渡し金拾両給り候、畢然(ひつぜん)上は遂に御隠居相成一入御法義御引立万事御支配有之度候為、後日依而證文如件

      寛文二年寅ノ三月
         高家道場後室    妙  意
      門徒総代  五郎八・三八
  御坊西円寺
        祐 賢 殿

 斯くて西円寺第四世祐賢当道場を継承し、西円寺号を当寺に附して祐賢の自庵を定め、木仏本尊下附を本山に請う。 本山某の請を容れ、寛文四年六月三日高家村西円寺願主祐賢として下附せらる。 然れども此の後享保十九年までは尚、御坊を西円寺といい、当寺を高家道場と呼べるが如し。
 寛政二年智教の時、本堂を再建す、某の以前は草萱なり。文化年間、納屋失火、家財古書類の焼亡せるもの多し。文久二年大信、庫裏を建築す。 当寺はもと本願寺派興正寺なりしも明治九年七月興正寺別派独立につき本派本願寺に直属す。

      開基   了忍房〜了心房
      中興   祐賢〜秀賢〜賢芸〜恵秀〜智教〜賢信〜大信〜鉄雄


 以上高家西円寺誌として記してまいりましたが、次に富安西円寺について記してみたいと思います。


 大正末期、当松谷山西円寺はもと日高町高家にありました寺院を富安に移しました。その寺歴は日高地方の浄土真宗寺院では最も古く当地方きっての由緒をもっていました。 明治以降、檀家も少なく寺院としての経営がはかばかしくなくなり、廃寺あるいは他の真宗寺院との統合を考慮していた由であります。時を同じくして富安地区では新寺建立を切望し、機運が高まりその実現に奔走しておりましたが、諸般の情勢から許可が難しい状況にありました。 富安区長はじめ区民はそこで、奈良県吉野郡大淀町から初代住職として 釈鉄雄を招き、大正十四年高家西円寺の寺号・山号とともにご本尊を当寺に移すことが認められ、念願を果たしました。

 当時、富安地区は経済事情貧困であったことから、有志の発案による寺院建立に賛同はいたしましたものの、その労苦は並抵のものではなかったことと推察されます。 区民が一丸となって男女の区別なく、雨の日も風の日も各戸の門に立ち喜捨を求め、ついに富安区の大計を成就させました。
 昭和八年十月、本堂を建立し、引き続き開山慶祝法要を厳修し浄土真宗寺院としての第一歩を踏み出したのであります。

 以上富安西円寺について記して来ましたが、ここで特筆しておきたいのは、この大事業を成しとげるに当り住職はじめ檀徒の方達一丸となり、筆舌に尽せぬ苦労で大変なものであったと当時共に苦労され今なお元気にしておられる方達の話の中で十分伺い知る事が出来ます。 先代哲之の後を継承し、私で三代目でありますが、苦労された方達の心を大切に今後益々護持発展の為、努力して行きたいと思っております。


 
住職  平岡晃英    



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