御坊組 寺院紹介 vol.11


三宝寺


一 創立と移転
 文明年間に蓮如上人が本郡高家村西ノ道場に滞在せられ、僧俗御化導の際、当村三郎次郎なる者は上人に帰随し名を心西と改め、字北裏という地に道場を創立し、代々俗体で相続した。そして明暦の頃、現今の地即ち弓場ヶ岬に移転した。
 承応三年(1654)御坊西圓寺(今の日高別院)第四世留守居職祐賢は右道場を譲り受け、爾来代々長男が世襲している。(註 祐賢は亀山城主湯川直春の弟信春の曾孫で高家村西圓寺を自庵とする。祐賢には二人の子供があり、兄の正元を入山道場へ弟の秀賢を御堂留守居職に願い日高御坊第五世とする。祐賢の墓所は三宝寺にある。)

二 木仏許可・寺号公称
 一、木仏許可は寛文十三年(1673)癸丑七月三日
 一、寺号公称は宝永七年(1710)庚寅正月二十日

三 歴代住職
 祐賢-正元-正賢-教随-賢随-賢了-正随-正住-巻蔵-宏澂-直文-逸紀
 三宝寺草創については享保十五年冬、三宝寺三世正賢が父正元の語るのを筆録した弓場山三宝寺事記によるもので、この事記の序文の一節に終南山実雄のかいた詩が載せられている。

  香閣入山一古今 峯頭満月照禅心 自斯三宝題名寺 風起松林転梵音

 まこと境内には十五本の老松が繁茂し、八世正住は九州日田の感宜園に学び、帰坊 後、多くの文人墨客と共に詩歌・水墨画をたしなんで、松籟の中に法義を喜んだ。幕末より明治初年のことである。松濤学校という塾も設け子弟を育てた。昭和五十年秋、この松が一斉に枯死してしまったことは遺憾至極である。

四 法宝物
 一、直光公 宝篋印塔
 一、直光公 肖像
 一、本願寺列祖連座銘
(これは西本願寺歴代御門主の名が記されたもので、本寺のものは紙本二幅で第十四代寂如上人自身の筆によるものである。右幅は親鸞聖人を中央上部に頂き、第七代存如上人まで、左幅は八代蓮如上人を中央上部に第十四代の「寂如」までの名が記されている。寂如には「上人」号はなく花押がある。)

五 新本堂と天井絵
    
 平成十六年三月本堂・庫裡・山門が新築落成した。建坪は変わらないが旧に倍して荘麗な堂宇が整った。 特に本堂内陣天井は本寺門徒 椎ア恒夫画伯によって描かれた見事な花丸天井絵で荘厳されている。百三十一枚に及ぶ花々は平成の世、当地の四季を飾るものばかりである。また、本堂内外陣を分かつ襖には雄大な老松図があるがこれも画伯による水墨画である。当寺の山号をよく象徴している。

六 これからの三宝寺
 上の記述は新本堂落慶時、作成したパンフからの抜粋です。写真も当時のものです。あれから17年、寺を取り巻くハード面(建物・法宝物)はそんなに大きく変化したように見えませんが、ソフト面、寺を支えて下さるご門徒が激減しております。ご門徒の主な生業であった農業の後継者が皆無で殆どの御家庭が高齢者の一人住まい・二人住まいでで、この先の寺院護持が極めて困難になることが目に見えています。ここ数年、どれだけ「墓じまい」「仏壇じまい」を依頼されたことか。
 仏教が「葬式仏教」と揶揄されるようになって久しいですが、近年、その葬儀や法事が「簡素化」され、亡くなられた大切な人を通して、現実としての「命」の尊さ、大切さ、厳しさを学ぶ「機会」を失って来ています。
 「元気な時に気楽にお寺に来て頂き、共に人生を謳歌し、最後は良く頑張られましたねと、人生の卒業式である“お葬儀”を勤め、そしてその後のフォローもさせて頂く。そんな繋がりがお寺の本来の姿です。」(浄土真宗本願寺派西向寺住職ブログ「お寺の存在意義」2015年9月15日) 大変な時代になってきました。古希を過ぎた私には重すぎる荷物ですが、ご門徒さんのお支えを頼りに背負って行きたいと思います。

                    南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

三宝寺住職 湯川逸紀    





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