「雑色雑光」って何??

■新年度の始まりにあたって
 4月、新しい年度が始まりました。自分が生徒や学生、教員をしていたころは4月といえば、身辺がみなリセットされ「さあ、始まるぞ」という気持ちになったものですが、いまは老いて、山寺に籠もる日々、4月が大きな節目という感覚は薄くなりました。しかし、陽光に促され桜が咲き、樹々の新芽が膨らみ、大地からはたくさんの芽生えが生まれてくる様子を見ていると、新しいいのちの季節の始まりは晴れやかな気分をもたらしてくれます。
 組内寺院の宗祖大遠忌厳修もほぼ終わりました。6月6日には本山で御門主様のお代がわりの式典「法統継承式」が行われます。宗門もいよいよ新しい時代を迎えることになります。
 今、私たちの宗門は「そっとつながる ホッがつたわる  〜結ぶ絆から、広がるご縁へ〜」を総合テーマとする「御同朋の社会をめざす運動」(実践運動) に取り組んでいます。21世紀、生きるに優しい時代ではありません。大きなことは出来ませんが、お念仏を喜ぶ人が一人でも増えるようつとめてまいりましょう。御坊組の年間行事は4月5日の組会で決定されますが、どうかみなさまの温かいご協力をお願いいたします。

■阿弥陀経には『雑色』なんてありませんよね?
 このホームページが開設されて10ケ月が過ぎました。日時は失念しましたが、あるご門徒さんから「『雑色雑光』って何ですか。阿弥陀経には『青、黄、赤、白』は出てきますが、『雑』なんてありませんよね。」と質問されました。その通りです。仏説阿弥陀経の経文の中でも最も知られたところでしょうか。「池中蓮華.大如車輪.青色青光.黄色黄光.赤色赤光.白色白光.微妙香潔.」 現代語訳すれば「池のなかの蓮の花は、大きさは車輪のようで、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放っていて、かぐわしい香りを放っている。」序列を競うのではなく、どのいのちも尊く大切にされる仏さまの世界を4色の蓮華の色とそこから放たれる光で表したところです。
 ところが、阿弥陀経のサンスクリット原典を見ますとこの部分は次のようになっています。(岩波文庫 浄土三部経 下 日本語訳)「その蓮池の中には、周囲が車の輪ほどの大きさのある蓮華が生じている。青い蓮華は青い色・青い輝き・青い陰影をおび、黄なる蓮華は黄なる色・黄なる輝き・黄なる陰影をおび、紅の蓮華は紅の色・紅の輝き・紅の陰影をおび、純白の蓮華は純白の色・純白の輝き・純白の陰影をおび、さまざまな色の蓮華はさまざまな色・さまざまな輝き・さまざまな陰影をおびている」と「青、黄、赤、白」の他に「さまざまな色」が加わっているのです。現在、私たちが親しんでいる鳩摩羅什訳の「仏説阿弥陀経」は原典にもっとも近いとされていますが、どうして「さまざまな色」が省かれたのかはわかりません。阿弥陀経の異訳とされる「称讃浄土仏摂受経」(玄奘訳)にも「青、黄、赤、白」についで「四形四顕四光四影」とこれら4色を混ぜ合わせて出来る「さまざまな色」に対応する文節があります。

■「雑色(ぞうしき)雑光(ぞうこう)雑陰(ぞういん)」
 仏教カウンセリングの研究者 大須賀発蔵先生は原典のここを「青色青光青陰 黄色黄光黄陰 赤色赤光赤陰 白色白光白陰 雑色雑光雑陰」と訳されています。(13.7.26「仏教とカウンセリング」講義 築地別院にて)そして次のように語られます。
 「諸々のまだら色の蓮の花には、
  まだら色の輝きと、まだら色の陰影がある」
と書いてあるんですね。そうすると、まだら色というのは、いろいろな色彩の混じった、いわば雑種の色だからそれを雑色ぞうしきとしましょう。「雑色ぞうしき雑光ぞうこう雑陰ぞういん」というふうに訳させていただきますと、味わいがまたひとつ違ってくるのです。
 カウンセリングのプロセスはまさに色合いをいろいろにしながら、光と陰を交互にしていくものです。「裏を見せ、表を見せて散るもみじ」という良寛さんの辞世の句があるそうです。本当に陰が見えたかと思うとそれがふっと光に変わり、また陰になったりしながら、裏を見せ表を見せて散っていく、つまり大きないのちの世界に還っていく。そういうプロセスこそまさに私たちの人生のプロセスでありますし、またカウンセリングのプロセスでもあります。そうしてみますと、「雑色雑光雑陰」という表現はきわめて大事な表現のように思えてしかたありません。なのにどういうわけか、天才翻訳家であるところの鳩摩羅什の翻訳ではカットされているのです。ですからあえてカットしてあったがゆえに、私はここに気づかせられているのかとも思います。はじめからこう書いてあったらなんのことなくすーと呼んでしまって、本当の意味の陰の味わいということに気がつかなかったのではないかと思います。
 ですから私にとっては、それもひとつの大事な方便だったのだと思います。
 とても大切な指摘だと思います。阿弥陀経には極楽浄土の六鳥の記述の直前に「色とりどりの鳥」の意味で「雑色之鳥」とあります。「さまざまな色」を「雑色」とすることには違和感はありません。ちなみに青、黄、赤は「色の三原色」と呼ばれる色です。これに白が加わればば調合次第で無彩色を含めすべての色を生み出すことが出来ます。

■「雑色雑光」のコーナーへの想い
 「雑色雑光」中々原色のように輝くことができない私、「濁っていてもいいよ、そのままがきれいだから」と阿弥陀さまが微笑んでくださっているようでもあります。
 「雑色雑光」のコーナーは御坊組みんなの交流の場、「さまざまな声」の交流の場になるようにと思い名付けました。これからも「そっとつながる ホッがつたわる」情報を発信できるようつとめてまいります。みなさまの投稿をお待ちしています。本年度も御坊組HPは月始めに更新してゆくつもりです。どうかよろしくお付き合い下さいますようお願いします。
南無阿弥陀仏

御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)

※余談ですが・・・
 青色のハスは自然界に存在しません。バラやカーネーションでは遺伝子組み替えで青色のものが作出されたように、いつの日かできるかもしれません。太古の昔には存在して、今は絶滅した可能性は否定できませんが、ハスは2000年前の種子から発芽した「大賀ハス」にみられるように大変生命力の強い植物ですので、かつて存在したなら、世界のどこかに残っていても良いはず。私は、植物にとっては花弁の青い色素はなかなか作りにくいことを考えると青色のハスは地球上には現れたことがないように思います。阿弥陀経にある「青色青光」は極楽浄土の蓮池の描写です。

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