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お寺、このままでは・・・

■新聞記事から
 さる10月11日、朝日新聞が一面トップに、「住職のいない1万2000寺」との見出しを掲げ、伝統教団に属する末寺の後継をめぐる厳しい現状を伝える記事が掲載されました。国内の主な10宗派の現状に迫ったものですが、その3割の寺院が「兼務・無住」となっていることが一覧表に示されています。その中、私たちの教団、浄土真宗本願寺派は10,216寺院のうち、それに該当するのは1割強の1,095寺院にとどまっていることは幸いでしょうか。
 この状況をもたらした要因は、農山漁村の著しい過疎化であり、物理的な人口減少が寺院の護持を困難にしていることが指摘されています。また、人々の宗教、寺院に対する思いも大きく変化し、それに教団・寺院が対応しきれていないことも記事から読み取れます。
 今、私たちの周りはどうでしょう。和歌山教区の組長会でも、本山からの大きな浄財の勧募、団参の割り当てなどの協議では必ずこの問題がでてきます。山間部に点在する寺院で構成される組ではもう30年来の問題となっていますが、その解決の見通しはたっていません。紀南三組も油断ならない状況にあります。


■念仏者への弾圧に抗して
 昨年秋、福井県立博物館で「親鸞と福井、ゆかりの名宝 真宗の美」展という催しがありました。ご存じのように、福井県には東西本願寺末の寺院だけでなく、高田派や仏光寺派も教線を伸ばし、さらに四箇本山も大きな伽藍を構えるまさに真宗王国です。そこには多くの法宝物が伝来し、それらが一堂に展示されるという画期的な展覧会で全国の真宗門徒の関心を呼ぶものでした。
 そこに、私が以前から気になりながら、拝見し損なっていた品が展示されることをネットで知り、出かけてきました。それは「文字瓦」(「呪いの瓦」と言われることもあります)「これは一向一揆の弾圧を示す貴重な証で、日本史の教科書にも載っていますよ」と友人の歴史の先生から聞いていました。昭和7年、旧武生市郊外味真野の小丸城跡から出土した丸瓦二枚、そのうちの1枚ホンモノが展示されていました。そこに記された文言が壮烈な一揆鎮圧の記録となっています。

◆原文
「此書物後世ニ 御らんしられ御物かたり可有候、然者五月二十四日いき(一揆)おこり、其のまま前田又左衛門尉殿いき(一揆)千人はかりいけとりさせられ候、御せい(成 せい敗)ハ、 はツつけ(磔)、かま(釜)ニい(煎)られ、あふられ候哉、如此候、一ふて(筆)書ととめ候」
◆文章の大意
「この書き物を御覧になって、後世に伝えていただきたい。5月24日に一揆が起り、前田又左右衛門尉殿が、一揆の者どもを千人ばかり捕まえられて、磔、あるいは、釜に入れてあぶり殺す成敗をされた。後世のために一筆書き留める」

 この史料は、当時、越前府中(現越前市)の領主だった前田利家が、一向一揆の人びとを1000人生け捕りにし、磔(はりつけ)、釜茹での刑にしたことを示しています。なんと残酷なことでしょう。「俺たちに刃向かうとこうなるぞ!」っていう見せしめとして、みんなの目の前で、ぐつぐつと茹で上がる熱湯や油の中で、家族や友人が処刑されていくんです。
 小丸城は、織田信長の命を受けて、越前の一向一揆を滅ぼした府中三人衆の一人佐々成政が1575年に築城したものです。(6年あまりで廃城となっている)前田利家(瓦文字では前田又左衛門尉)も三人衆の一人。当時信長にとって最大の難敵は、武田信玄でも毛利でもなく本願寺顕如上人でしょう。利家が信長の命で一向衆徒を残虐に弾圧しても不思議ではありません。
 文字瓦に関しての図録の説明には「別の一点には人夫を挑発したとみられる広瀬・池上の地名がみられる。いずれも瓦焼成前の粘土の表面に線刻されたものである。文中の前田利家に対する敬語表現、流麗な書風、別の一点にみられる瓦製作に関する人夫役の記載、『この書き付を見て後世に事の次第や結末についてあれこれ話をするように』と勧めていることなどからみて、府中三人衆の立場から越前平定の戦果を記録したものとみられる。」とあります。
 統一政権成立の前に立ちはだかった北陸の一向一揆は、信長に激しく弾圧されました。しかしその後も越前真宗門徒は、石山本願寺に拠り信長に対抗する本願寺顕如上人とその長子教如上人をさまざまな方法で支援したと伝えられます。一向一揆については複雑な政治状況がからむことでありましょうが、「仏の前にはみな平等」という信念にもとづいてどこまでも戦い続けた遠き同朋に深い感銘を受けます。
 因みに現在この瓦は越前市の真宗出雲路派本山毫摂寺の近く越前の里・味真野資料館に常設展示されています。毫摂寺には何度か参拝したのですが、うまく時間がとれず見逃していましたが、この度ようやく念願がかないました。また、越前の里の道路沿いにこの一揆弾圧で打ち首になった僧侶200人の首塚「一向衆徒首塚」も建てられています。味真野は越の国の玄関口として奈良時代には既に開かれていて、万葉集にも歌われているように奈良の都とは深い交流があったといいます。今、訪ねてみると毫摂寺や城福寺、味真野神社などが木立に包まれて建つ穏やかで情緒豊かな地域ですが、ここには念仏者への過酷な弾圧の歴史も刻まれています。

■今、お念仏の声は・・・
 北陸一帯の本願寺に帰依する門徒衆は歴史的には大弾圧を受けながらも、その末裔はお念仏を篤く相続して、「真宗王国」を作り上げました。今日、真宗教団を強権的に弾圧するような動きは皆無です。しかし、年間の法座数やそこへの参拝者数をみるとき教団の基礎単位である一般寺院の活動が鈍ってきていることは否定できません。当地でお念仏を喜ぶ人々が増えているかと問われても、私には肯定する勇気はありません。それどころか、これまで預かってきたお寺を維持してゆくのが精一杯。先々の展望は決して明るいものではありません。
 私方三宝寺は美浜町にある門徒戸数50戸ほどの小さな寺ですが、今年になって2軒の御門徒さんがお家を手放され東京と横浜に移ってゆかれました。そのうちの1軒は大きな屋敷地と広い田畑がありましたが、今その跡には太陽光のパネルが並んでいます。親の代までは農業をされていましたが、子や孫は東京ぐらし、お墓だけは残してゆかれましたが、ご縁を保ち続けるのは難しそうです。今後、私どもには、このような事例がいっぱい出てきそうです。

■わが寺の総合振興計画
 今年6月、宗門から「総合振興計画」としてこれから10年の宗門の活性化について様々な提言がなされました。もちろん、過疎寺院対策にも、大きくぺージをさいてさまざまな取り組みを提起してくれています。しかし、それに取り組むにも多大のエネルギーを要し、私まだ何も出来ていません。過疎地域にある末寺の厳しい現実を見るとき、末寺の段階でも「わが寺の総合振興計画」を練らねばならないと感じています。
南無阿弥陀仏



御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)

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