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「日高に残る戦争遺産(その1)」 日高の山々に残る地下壕、トーチカ、砲台跡

 戦後72年、あの過酷な戦争も人々の記憶から遠くなりつつありますが、昨年度末におこなった門信徒研修協議会「小松講演」は戦争の事実を知る上で何よりの機会となりました。 平和を希う念仏者として、悲惨な戦争体験を語り、聞き継いでゆくことは大切なことでありましょう。 日高地方に今も残る戦争の傷跡をこの小欄をお借りして、3回ばかり私の見聞を紹介します。

■戦争末期の「築城」とは
 「築城」(ちくじょう)と聞くと、大阪城は豊臣秀吉が、江戸城は太田道灌が、熊本城は加藤清正が・・・・城を築くことをイメージします。先日、「平和委員会」のメンバーに誘われて戦争遺産の調査に同行させていただきました。その時、配付された資料の一つが写真のものです。そこには「○○築城施設要図」とあります。「えぇーあの時代にお城が・・・」と驚きましたが、どうやら「城」に対する私の勘違い。「築城」をネット検索すると、「ある地点の防衛を容易にし,戦術的価値を高めるために地形を利用して,水濠,土濠,土塁,障壁,鉄条網,対戦車壕,トーチカ,城壁などを建造すること。」とあります。今、「城」といえば観光地のシンボル、壮麗な姫路城や和歌山城を思い浮かべますが、本来は軍事要塞、当たり前のことですが、ふっと忘れていました。
 戦争末期、日本陸軍は本土決戦に備え、全国各地の海岸近くの山に地下壕を掘りトーチカを作りました。これが「築城」です。日高地方の山々には今も人知れずその「城跡」が残ります。県内では友が島にある煉瓦づくりの要塞跡がよく知られ、アニメ映画「天空の城ラピュタ」に出てくる風景とそっくりだと全国から観光客を集めています。ただそこは明治時代につくられ第二次世界大戦まで使用されていた旧日本軍の砲台跡です。

■戦争末期に掘られた「地下壕」
 当地方に残るものは太平洋戦争末期に造られたものです。1945年、大都市への空襲が中小都市にも拡大激化し、米軍の本土上陸が現実味を帯びてくる中、軍は上陸が想定される太平洋沿岸や進軍道路を臨む山地に地下壕を掘り、トーチカを築きました。侵攻してくる米軍と対峙するためでしょうが、幸い使われることなく終戦の後はそのまま放置されました。
 今、その大半は落盤し、藪に覆われて入り口を見つけることさえ困難になっています。昨年から日高の平和委員会では地域に残る戦争遺産を現地調査しています。私は、ここまで、御坊市熊野、野口、丸山、美浜町入山の調査に同行させていただきましたが、どこも地元の方の案内なしには行けないところばかりで、貴重な学習をさせていただいています。
 野口地内には、小高い峰の山頂部に大きな砲台跡があります。砲台は大きく山を掘り下げ建造したもので、それを覆う建屋もあったとのこと。何本もの排水溝も備えた大規模なものです。そこからは遠く煙樹ヶ浜や塩屋の海岸が遠望できます。終戦後ただちに、その砲台・大砲は軍によって撤去され、ここには何も残さなかったと当時を知るこの日、案内して下さった熊野のY氏、N氏が話してくださいました。
※砲台想定図は「和歌山城郭研究」(第11号)森崎順臣氏論文より

■丸山(亀山)調査で多くの発見
 私たち4人が調査させて頂いたうちで、地下壕などが最も数多く、その形状をよく残しているのは丸山(亀山)です。案内して下さったのは地元に生まれ育った湯川定治氏(三明寺門徒)、氏は幼いころから丸山(亀山)全体を遊び場にしており、よく壕に入って遊んだと仰います。この日、麓から山頂まで半日かけて10ケ所以上ある地下壕を丁寧に案内していただきました。丸山の地下壕は周囲の岩盤が堅いのか、他に比べてよくその形が保たれています。ただ、今そのどこも周囲に雑木が繁茂し、そこからは山麓は見通せません。
 亀山山頂に近いところの壕は入口と出口が今も通り抜けられるといいます。宮跡付近には壕の他、幅50センチ、深さ1メートル余りの塹壕が縦横に掘られています。このような場所は他にあまり見られません。ここは子どものころ湯川氏の格好の遊び場であったようです。湯川氏所有の畑脇にある壕はトーチカで、調査で見た物のうち最もよく残ったもので、正面のコンクリートには殆ど劣化が見られません。どういう目的か不明ですが、トーチカの前には小さな水溜も造られています。銃を構えるための四角い穴もはっきり認められます。狙いは熊野街道を進軍する敵兵だったのでしょうか。
 丸山の壕の口は等しく旧熊野街道に向いています。その場所はほぼ「築城施設要図」通りですが、湯川氏のような案内人がなければ、どの一つにもたどりつけません。そして、この調査に備えて、湯川さんは壕に近づくルートを下見して雑木・雑草を除去して下さっていました。まことに有り難いことでした。

■中世亀山城と戦争亀山「城}
 この亀山には戦国の世、有田・日高・牟婁地方を支配した湯川一族の本城、亀山城がありました。これは牟婁に発した湯川(湯河)氏が北上し、室町時代初期に日高に進出、第3代湯川光春が要衝亀山に築いた山城でした。11代直光は亀山の山麓に平時の居館(小松原館)を築いています。この直光の代に湯川氏は、有田地方にまで勢力を伸ばし、守護畠山氏の広城を攻略して事実上の守護代となりました。直光は後に「日高別院」となる「吉原坊舎」を建て、次男信春を住持とした日高の真宗興隆の祖というべき人物でもあります。しかし、戦国の世、時勢は湯川氏に味方せず、天正13年(1585年)12代直春の時、豊臣秀吉の紀州攻めによって亀山城は落城、直春は紀南に敗走も毒殺され、亀山城も廃城となりました。 亀山城は当時、本丸を中心に二の丸、二の曲輪、腰曲輪の段からなる相当大規模な山城であったと推察されます。現在も本丸を囲む土塁や曲輪群がよく残っており、山の中腹には腰曲輪も多く残り中世山城の典型として昨今、県の文化財にも指定されました。現在、地元丸山区が「亀山城址護持顕彰会」を設け貴重な中世山城跡を保全に努めて下さっています。山頂の本丸跡には亀山城址碑と湯川氏供養塔があります。
 昭和の日本陸軍もここ「亀山」を軍事の要衝としたのか、いくつもの「城」を築きました。ツルハシ一本、人力だけで堅い岩盤を穿ち、兵士が立てこもる壕を造ったのです。丸山ではないですがその土木工事に動員されたのは日本の兵隊だけでなく徴用された朝鮮半島の人たちもいたと話す地元の古老もおられます。幸いこの地への米軍上陸はありませんでしたが、もし地上戦となったら、沖縄戦のように米軍の圧倒的な火力の前に悲劇的な戦闘を強いられることになったのではないでしょうか。その時、軍はどのように住民を守ってくれるのか想像できません。

■三宝寺直下のトーチカ
 自坊(三宝寺)もこの地下壕の存在と深く関わります。私の子どもから青年時代、1950〜80年代ごろ、強い降雨がある度に本堂が建つ地盤にひびが入り、下がってゆくのです。本堂に付属する後堂や側堂が傾き危険で使用できなくなってゆきました。
 その原因は本堂地下まで掘られた「地下壕−トーチカ」の落盤です。戦争が終わっても国は壕を埋め戻すことはありませんでした。入山地区にも10ケ所くらいの地下壕がありますが、建築物の直下に及ぶものはこれだけです。「なぜ、こんなところを掘らしたのか。住職として何にも言わんかったのか」と子どもの私は当時の住職であった祖父を責めましたが、「軍隊がやること、ワシも言うたけど聞き入れてくれるはずもなかった」というばかり、父は出征して南支で従軍しておりましたので如何ともしがたいことでした。台風の豪雨の後には人が立って歩けるぐらいの穴が何メートルも奥に続いているのが外から見えたことを覚えています。

■壕の落盤と本堂新築
 大きな落盤があるごとに、御門徒さんが寺に駆けつけて来てくださり、地中に鉄筋を打ち込んだり、コンクリートを流し込んだりする応急処置を施してくれましたが、本堂敷石の一部が落盤する地面にかかっており、その傾きが大きくなる一方でした。もう20年になりますが、このままでは、本堂内陣の御本尊、仏具類も痛んでしまう、いっそ、大変なことになるが、地盤を固めて本堂の建て替えを急ごうということで御門徒の気持が一つになってゆきました。旧本堂の落慶は明治16年でしたので、建て替えの機運が出てきた時点ではまだ創建100年余り、これを建て替えるとは勿体なさすぎます。あの壕がなければ、あの戦争がなければあと100年は念仏道場として親しめた欅造りの本堂でした。

■平和を希う念仏者と憲法9条
 仏教は一貫して「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。」『スッタニパータ』と不殺生を説きます。真宗所依の経典、三部経の一つ『仏説無量寿経』(下巻)には「仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり(中略)武器をとって争うこともなくなる(兵戈無用)」という世界が、仏教における平和の理想の姿であるとあります。憲法9条に通じます。親鸞聖人がお手紙の中で、「御念仏こころにいれて申して、世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と申されました。まさにこの世界を願っての歩みが念仏者の生活であるということを示されたお言葉でした。

■「戦争遺産」調査にご協力を!
 かつての軍部が作成した「築城施設要図」によると日高地方には、このような「城」がたくさんあったようです。今、それらの存在自体が地域から忘れ去られようとしています。このような「戦争遺産」は平和を考える「平和遺産」でもあります。開発や自然崩壊の前にせめて現状を確かな記録に止めておくことは大切だと思います。平和委員会ではみなさまからの情報提供をお待ちしています。


御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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