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「日高に残る戦争遺産(その4)」 穴のあいた梵鐘と石の鐘2


■印南町内のお寺にある「石の鐘」
 この日高の地にも供出した梵鐘の代わりに鐘楼につるされた大きな石が保存されているお寺があります。切目元村の浄土宗西蓮寺さんです。 写真のように綱を通す穴まであけられています。[写真@]
昭和23年には檀家のみなさまが浄財を寄せて新たたな鐘を鋳造されましたので、その役目を終えましたが、この石は終戦をはさんでの数年間、鐘楼を守るためにつるされていました。今は本堂の前で苦い歴史を語っています。かつて、この石のことは印南町内の小学校の平和学習の教材ともなったようです。
 同じ印南町の島田にある浄土宗光明寺さんにも戦争に供出された梵鐘に代わって鐘楼を護っていた大きな石が残されています。現在鐘楼には戦後新鋳された大梵鐘が吊されていますが、その脇にはこの石が釣り金具がついたまま展示されています。そこには石の由緒の他、戦争の反省もきちんと書かれた説明板も添えられています。[写真A写真B]








 また町内稲原にある瀧法寺(お瀧さん)にも鐘楼を守った石が確認できます。ご住職(小生の高校時代の同級生西山宝性師)に伺うと、鐘楼(「観音鐘楼」と名付けられています)は江戸時代には山の尾根にあったが、後に現在地(境内の中心近く)に移設されたようです。四方の柱は欅で棟の鬼瓦には菊の紋章が入った立派なものです。[写真C]
 遠くその音は印南浜まで届いたという大きな梵鐘は戦争で供出させられました。寺では鐘楼の安定を図るため、巨石を3個ばかり太い針金でしばり、鐘楼の梁につるしました。戦争が終わっても梵鐘は戻ることはなく、石はそのままの状態で残りました。30年程前、その針金に経年のサビがまわり、その重さに堪えられずついに切れ、石は鐘楼の中央に落下。現在もそのままそこに残されています。今この鐘楼近くには「八角堂形式」の「十三仏堂」が新築され、その中央に新鋳された立派な梵鐘がつるされています。
[写真D]







主がないままの鐘楼に残された大きな石[写真E]、切れた番線[写真F]がいかにも寂しいです。






■釣鐘の供出を拒否した住職
 高校時代からの友人で、現在和高専で総合科(社会)の非常勤講師として教鞭をとっておられる小田憲先生から大変興味深い資料いただきました。
 幣原喜重郎『外交五十年』(読売新聞社、一九五三)の中の一篇「鈴木貫太郎夫妻」に出てくる話です。
 戦争中、軍需物資を造るというのでお寺の鐘とか、銅像とかあらゆる金属を民間から取りあげた。村にお寺が一つあり、その寺の釣鐘に白羽の矢が立った。それで村の者が行って、坊さんに釣鐘供出の話をした。坊さんは黙って聞いて居ったが、「それば不可ません〈イケマセン〉。私は承知出来ません。この寺は古い寺で、徳川の何代ごろからのもので、もう三百年も前から今月に至るまで、朝夕に撞くこの鐘の音というものは、実に音と今を繋ぐ一つの連鎖なんです。もしこの鐘を持って行かれたら、もうこの音は聞かれない。うすればこの寺は潰れた〈ツブレタ〉と同じです。そしてそれは私が死んだと同じことです。私としては鐘を供出することは絶対に出来ません」といって、坊さんはどうしても釣鐘を引渡さない。村の者は弱って、われわれが幾ら談判〈ダンパン〉しても、坊さんに言い負かされてしまう。これは鈴木貫太郎大将に頼んで説諭して貰う外はないというので、ぞろぞろ東京へやって来た。  鈴木君は、どういう事かよく判らんが、一度帰って話を聞いて見ようと、日曜に関宿〈セキヤド〉へ帰って、坊さんを尋ねた。そして「あなたが釣鐘を献納なさらんそうで、村民が県庁に対して申訳ないといつて、私のところへ訴えて来たが、あなたはどういうお考えですか」というと、坊さんは「あなたは私が献納する方がいいとお思いですか」と反問する。鈴木君は、「イヤ、私はその判断をするのじゃない。村の者がいって来たから、それを伝えただけだ」といった。すると坊さんは暫らく黙然と考えていたがつと立って出て行った。いつまで経って帰って来ない。何か不安な気がして、本堂の方へ行って見たら、坊さんは仏像の前へ坐って、短刀を側へ置き、昔風の切腹の様子である。あわや短刀を抜こうとする。鈴木君が飛込む。危ういところで坊さんの一命を取止めた、そうして、「イヤ、あなたの心持ちは判った。私は何も鐘を献納しろといいに来たのじゃない。しかしあなたがそれほど自分の生命を投げ出しても、法を護ろうとする真情は実に神聖なものだ。宜しい。これからは村の者が何といっても、この鈴木が承知しませんから」といって、坊さんをなだめた。


 それから彼は村の者を寺へ呼出して、「この坊さんは実に尊い人だ。こんな人は日本に滅多に居らん。この尊い坊さんを、お前らが寄ってたかって殺すようなことになりかけた。今後二度とこのような事を申出てはならん。この鈴木が承知せん」と、厳然と申渡した。坊さんは感動する。村の連中はワアワア泣き出す。それは実に劇的な光景であった。  この鈴木大将というのは、終戦時の首相として知られる鈴木貫太郎[写真8]のことです。あの時代に何という気骨のある住職なのでしょう。私におき変えたら・・・とてもと思ってしまいます。

■御門主の御消息を重くいただく
 2014年6月6日の法統継承において光淳門主が「法統継承に際しての御消息」を宗門内外に発布されました。その中に次のようなお言葉があります。「宗門の過去をふりかえりますと、あるいは時代の常識に疑問を抱かなかったことによる対応、あるいは宗門を存続させるための苦渋の選択としての対応など、ご法義に順っていないと思える対応もなされてきました。このような過去に学び、時代の常識を無批判に受け入れることがないよう、また苦渋の選択が必要になる社会が再び到来しないよう、注意深く見極めていく必要があります。」と述べられました。私はあのアジア太平洋戦争への宗門の対応に厳しい反省をお示し下さったものといただきました。[写真H]

 石鐘の警鐘を聞き漏らすまじ [写真I]

 石やコンクリートの鐘は撞いても「コン」としか鳴りません。しかし、その音はしのびよる戦争への警鐘でありましょう。聞き漏らすことがあってはなりません。「正覚大音 響流十方」の『讃仏偈』の御文は「さとりのみこと高らかに あまねく十方にひびくなり」と訳されます。いのちの響きをあまねく十方に届ける梵鐘を再び兵器や弾丸に変える世の到来を許してはならないことを改めて心にきざみました。                                                 南無阿弥陀仏



【補記】 2月のホームページ「雑色雑光」に書かせていただいた長野県信濃町の称名寺にある「石の鐘」については数年前、、長野市にある映画製作会社「スコブル社」がDVDを製作されました。「夕焼けこやけで」というタイトルでドキュメンタリー風の映像です。長野県内の多くの浄土真宗本願寺派寺院が撮影に協力しています。現在は販売を終了していますが、先日、社の御好意で私方に1枚提供していただいています。[写真J]  




御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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