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親鸞聖人御旧跡めぐり(その3) 唯円房開基 報仏寺を訪ねて



 今、聖人の弟子の中では最も知られているのは、歎異抄を著した唯円房でしょう。しかしどうした訳か、この唯円房は二十四輩には数えられていません。二十四番目に同じ名前の唯円房がおられますが、別人で「鳥喰の唯円」と称されています。歎異抄の著者の唯円房は「河和田の唯円」と呼ばれます。いずれもその冠は在住された地名です。
唯円房(平次郎)はもともと、常陸国大部の生まれです。稲田の草庵(笠間市稲田)に滞留中であった当時63歳の親鸞聖人の弟子となりました。 その後、聖人が上洛されるので、唯円は19歳で上京し、京都の聖人の禅室でご給仕されました。41歳の時に「唯円」という法名を賜り、常陸の国の 河和田(茨城県水戸市)に坊を結び、現在の報仏寺の開基となりました。唯円は高才弁舌の誉れが高かったと伝えられています。

 現在、水戸市河和田城跡にある報仏寺は大谷派の大寺院です。境内に入ると巨大な「唯圓大徳開基」の碑が目に入ります。広い境内に山門、本堂、庫裡、鐘楼、庭園が配置され、どれも手入れが行き届き素晴らしい景観です。
 本堂前には、シダレザクラの巨木があります。樹高本堂よりも高く花の時期はさぞかしであろうと思われます。私が気になったのはもう一本の巨木「タラヨウ」です。樹齢400年、この樹種でこんな大きなものとは初めて出会いました。
 タラヨウの漢字は「多羅葉」。モチノキ科の植物で、神社や寺院によく植栽されています。インドには「多羅樹」というヤシ科の植物があります。遠く、古くはそれを短冊状に切って、経文を(針金で)書くために使われたといいます。これが名前の由来となっているタラヨウの葉は肉厚で20センチほどもある長楕円形をしており、その裏には針金などで容易に字が書けます。そのため「ハガキの木」として郵便局のシンボルツリーともなっています。和歌山市の中央郵便局前にも植えられています。自坊境内にも一本植えていますので、私はこの葉に竹串で宛先と文面を書き、孫宛に定形外郵便で送ったところちゃんと着きました。またこの葉を火であぶとると裏に紋様が現れます。その形を占いに使用したと伝わります。それが神社に多い所以でしょうか。余談ですが、本宮大社の本殿前にもタラヨウの大木があります。その木の下には八咫烏を象徴する真っ黒な郵便ポストまであります。
 唯円房は聖人の没後、あの名著「歎異抄」を著しました。その前序には「先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに・・・」(聖人から直接お聞きした真実の信心とは異なることが説かれていて、 歎かわしいことです。 これでは、 後のものが教えを受け継いでいくにあたり、 さまざまな疑いや迷いがおきるのではないかと思われます。)とこの書物を書かねばならない理由が述べられます。真宗関連の古書でこれほど後世の人々に影響を与えた書物はありますまい。「一字一涙」の書と言われる「歎異抄」、この書物があったからこそ真宗の裾野が大きく広がりました。
 唯円房はこの唯円房開基の寺に後世になってからでしょうが、そこに葉に字(経文)が書ける植物が植えられ大切に守られていることは実に相応しいことだと感じました。

 現在の報仏寺は河和田城址に造営されていますが、唯円房が庵を結ばれたのは、お寺から南西に500mほどのところにあるという「唯円の道場池」の辺りです。しかし、ここは大変わかりづらい場所です。車のナビにその名を設定しようと思っても候補名がない。正式な住所表記も分からない。近隣の方に尋ねても御存知ない。仕方なくお寺の庫裏にご住職を訪ねたところ、ご親切に地図まで書いて下さり、ようやくたどり着くことができました。

 かつてここには心字池があったと言われますが、現在、池は水田と湿地になり、石碑と杉の大樹がかろうじてその面影を残しています。石碑には、明治44年、大谷派の碩学近角常觀師が撰述された唯円讃仰文が刻まれています。碑面本文の字数は、572字、しかも漢文。とても私には読み解く力はありません。
 ただ、ご住職も仰っていましたが、ここに通じる道路が水田の畦道しかないのです。せっかくの史跡ですが、信徒以外に訪れる人は希でしょう。しかし、この場所は唯円房が念仏道場を開いた場所であり、聖人も度々ここを訪れているであろう浄土真宗にとっては極めて重要な場所です。

 唯円房は1262年に親鸞聖人が亡くなられた後、河和田に帰郷し、また、文永11年(1274年)、53歳の時、河内・安福郡の慶西坊から頼まれ、 奈良吉野下市の秋野川のほとりにある有縁の地に庵(現在の立興寺)を結んで開基となり、布教活動に専念されました。そしてその地で往生。唯円房の墓所は立興寺の裏山にあります。本派立興寺には何年か前に御坊組の大和吉野にある蓮如上人の御旧跡を巡る研修旅行でお参りしたことを思い出しました。
 この他、報仏寺には聖人に出会う前の平次郎(後の唯円)回心のエピソードを刻んだ石碑があります。
 以下、『報仏寺略縁起』築地本願寺HPより

 「平次郎は仏法の道理を知らず、常に殺生を好む放逸無懺の悪人でした。しかし妻は夫と違い親鸞聖人の御教化を受け信者となり、折々夫の目を盗んで稲田の草庵に参詣していました。あるとき聖人に夫平次郎は仏法誹謗の者なので、我が家では一遍の念仏さえもできないと涙にむせび嘆きました。聖人はその深い志に感じ入られ、十字名号を書かれ女房に与えられました。女房は歓びの涙を流し、御名号を押し頂き我が家に帰り、その名号を手箱の中に隠し、夫の不在の折を窺って香花と灯明を供えていました。ある時夫の不在の時に奥の間に名号を広げ、一心に念仏を称えていました。
 平次郎が帰ってきて家の中の様子を伺うと、女房が何か書いたものに向かい読んでいるのを見て、夫は他の男の恋文と思い込み、戸を開けて家に入ります。女房は驚きすばやく名号を懐の中にしまい出迎えました。平次郎は今隠したものは何か問い詰め懐に手を入れようとしますが、女房が逃げ出たため、夫は逆上し腰に差していた山刀を抜いて斬りかけ殺してしまいました。
 平次郎は女房の死骸を竹やぶに埋め、家に戻りますが、不思議に家の中より女房が出迎えたので、平次郎は今までのことを女房に語りました。女房が懐を改めると名号がありません。二人で共に藪の中の埋めたところを掘り返してみると死骸はなく、代わりに帰命尽十方無碍光如来の名号が帰命の二字のところから袈裟懸けに切られており、血潮に染められていました。女房は座り込み天を仰ぎ、お慈悲のご恩を喜び、お念仏を称えました。平次郎も、涙を流し膝をつき伏し拝み南無阿弥陀仏と称え、持っていた刀で髻を切り落とし、このような尊い名号を刀にかけるとは勿体無い、何とか免じて欲しいと涙が止りませんでした。それから夫婦で稲田に参詣して、ことの次第を申し上げると、そもそもこの名号は逆悪の衆生を捨てずに光明の中に接したまう徳号なのだからそのようなことになったのであろう。これは悪人往生の証拠の名号であるから大切にしなさいと御教化くださり、悪人平次郎は改心しお弟子となったと伝えています。」

 この袈裟懸けに切られた十字名号が報仏寺に伝えられていると言われますが、私が参拝した当日には拝観することはできませんでした。しかし、回心前とはいえ、平次郎の行為と唯円房の名著「歎異抄」とのギャップには驚かされます。この回心譚は、五色園の塑像群の中にもありますが、現地で初めてこれを見たとき、とても真宗のお話しだとは思えなかったことを記憶しています。また、この平次郎は伝絵(御伝抄、御絵伝)の「熊野霊告」や「田植え歌」に登場する「平太郎」さんの弟であると、道場池の碑文中に記述されています。 
 報仏寺さんは二十四輩寺院ではありませんが、あの唯円房と親鸞聖人をすぐ近くに感じさせて下さる名刹です。是非の参拝をお勧めします。


    南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏



御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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