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親鸞聖人御旧跡めぐり(その5)「真佛寺」は平太郎さんのお寺




 「真佛」といえば、私が思い浮かべるのは、二十四輩の第二番、高田専修寺の開基である真佛房、国宝指定されている「三帖和讃」をはじめ聖人の多くの著作を丹念に書写し、後世に伝えてくださった偉大な門弟です。水戸市飯富町にある「真佛寺」はその高田の真佛房に由来する寺号ではありません。伝絵に登場する「平太郎」さんが開基のお寺です。平太郎さんの法名が「釋真佛」であったことは、このお寺にある平太郎さんの墓碑を見て初めて知りました。
 平太郎さんは、二つのエピソードで後代に知られています。一つは「親鸞聖人田植え歌」のこと、もう一つが伝絵の「熊野霊告」のお話しです。「田植え歌」についてはこのホームページ昨年6月の「今月のお話」コーナーで紹介させていただきました。このコーナーはホームページ上では遡れませんので、以下に再録しておきます。

    お念仏はいつでもどこでも  親鸞聖人「田植え歌」

 『五劫思惟の苗代(なわしろ)に、兆載永劫の代(しろ)をして、一念帰命の種おろし、自力雑行の草をとり、念々相続の水流し、往生の秋になりぬれば、この実とるこそ、うれしけれ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』

 日高地方は今、田植えの真っ最中。農家が多いうちの御門徒さん方もお忙しく田に入っておられます。
 もう、30年ほど前になりますか。本山御正忌報恩講の通夜布教を今の龍谷ミュージアムの場所にあった本願寺会館内の総会所で聴聞したとき、御講師が親鸞聖人が作られたというこの歌を紹介して下さいました。初めて聞くその場では歌詞の中身はよく分からず後に書物にあたって確認しました。これは御伝抄にも登場する平太郎さんのエピソードとして伝わります。聖人が流罪を解かれ関東に赴かれた時、常陸の国那珂西郡大部の郷(現 茨城県水戸市飯富町)で平太郎という青年にお出会いになります。その後、平太郎は聖人の教化を蒙り、お念仏を喜ぶ身となります。
 平太郎は、田植え仕事のまとめ役。そこで、ともに働くお百姓さんに法を伝えようとしますが、忙しさから一向に耳を貸してくれませんし、口からお念仏は出ません。そこで、聖人にお伺いをすると、聖人は平太郎にこの田植え歌を伝え、これを歌いながら田植えするようにお勧めしなさいと仰り、実際聖人もこれを歌いながら一緒に田植えをなさったと伝えられます。
 この歌は、大人はもとより、子守の子供の口にまで、歌われるようになり、春の苗代(なわしろ)作りに始まり、田植え・夏の草取り・秋の稲刈りの折々に歌われ、ご法義の伝わるご縁になりました。
 また、この田植え歌は少しずつ形を変え、関東はもとより滋賀県にまで伝わったようです。

 御伝抄下巻第五段の詞書には「そのころ常陸国那荷西郡大部郷に、平太郎なにがしといふ庶民あり」とあります。東国の親鸞聖人周辺の人々について多くの著作がある歴史学者の今井雅晴先生の講演で「大部郷は現在の水戸市飯富町一帯である。飯富は今では『いいとみ』と発音するが、かつては『おーぶ』と発音したと考えられる。大部と同じである。」と聞いた記憶があります。
 飯富は県都水戸市内にあるとはいえ、農村地帯です。真佛寺はその小高い山の上にあります、かつては大谷派に属されていたようですが、現在は真宗単立寺院です。本堂はがっちりした鉄筋、広い墓地も整備され、風格ある寺院です。本堂前には「田植え歌」の歌詞が刻まれた石碑、「釋真佛上人墓」と書かれた大きな墓石があります。また、境内には親鸞聖人お手植えの菩提樹の大木もあります。



 ご住職から、平太郎さんが実際、お百姓仲間に田植え歌を伝えた記念碑がある場所を教えていただき、そこにもいきました。車道脇の田の一角を埋めて立て小さな丘をつくって下さっています。そこには大きな案内板と「田植え歌の碑」が建っていました。私がここを訪ねたのは6月下旬、田んぼの早苗がどんどん生長しつつある時期でした。その風景をみていると、その苗は聖人や平太郎さん、仲間のお百姓さんたちがこの歌を口ずさみながら植えてくださったものではないかなと遠くに思いをめぐらしました。
 伝絵の「熊野霊告」を述べる御伝抄下巻第五段の詞書、御絵伝の図の量は多の段に比べて非常に多くなっています。親鸞聖人の神祇感が果たしてこのようであったかどうかは私には判断する力はありません。しかし、現代においても平太郎さんと同じように「神」との関係に悩む「門徒」は多かろうと思います。まさに「庶民」です。
 平太郎さんは熊野参詣の由をあきらかにするため、京の聖人を訪ね、深い学びをされました。非常に真面目な念仏者であったことが伺えます。

 平太郎さん(真佛房)の木像や単独の絵像が関東に存在するかどうかは私には不明ですが、一度京都で拝観したことがあります。2015年の年の暮れ、京都に遊んだ折、下京区松原通西洞院にある大谷派光圓寺さんに立ち寄りました。それまでもここが親鸞聖人の由緒寺の一つであることは知っておりましたが、お堂の中には入ったことはありませんでした。ちょうど、この日ここを通りかかりますと、本堂で坊守様が迎春のための荘厳を整えているところでした。ご迷惑かと思いましたが、お声をかけさせいただきますと、本堂に上げて下さり、お寺の由緒をいろいろと教えて下さいました。

 お話しによりますと、今は「松原通」に面しているが、ここは平安・鎌倉の昔は「五條西洞院」にあたるとのこと、まさに御伝抄にある聖人が晩年を過ごされた「一つの勝地」だということになります。関東から平太郎さんが訪ねてきたのもここにあった禅房でしょう。
 本堂外陣には伝絵の聖人と平太郎の対面する画、聖人と恵信尼さまの大きな絵像が並んで掲げられており、内陣余間には親鸞聖人の他に九條兼実公、その娘玉日ノ君の木像、そして平太郎の木像が安置されていました。お寺の縁起が書かれたパンフもいただきましたが、どこにしまい込んだのか目下行方不明。平太郎さんの像様は烏帽子をかぶった御絵伝の絵像そのままだった記憶があります。(堂内の写真撮影は遠慮しました)

 ところで坊守さまに本堂前の大きな石碑に「親鸞聖人入滅之地」とあることを問わせていただくと、「聖人はここでお亡くなりになりましたが、ご遺体は事情があって実弟尋有僧都の住居『善法院』に運ばれ葬儀に臨まれたと伝わっています」とのことでした。
 光圓寺さんはまさに市井のお寺、昔も今も庶民が暮らす町の真ん中にあります。聖人は関東から訪ねて来た平太郎さんをここで温かく迎えられたことでしょう。こじんまりとした堂宇と温かい坊守様が今、その雰囲気を感じさせて下さいます。
 なお、親鸞聖人の慈信房宛の御消息(建長7年11月9日付)に見える「中太郎入道」とこの平太郎は同一人物ではないかと言われています。「おほぶの中太郎の方のひとは九十なん人とかや、みな慈信坊の方へとて中太郎入道をすてたるとかやきき候ふ。」(大部の中太郎方の人たちは、90何人でしたか、みな慈信房方につき、中太郎入道を見捨ててしまいました)とある中太郎です。

 伝絵詞書でもそのことが裏付けられるようです。絵伝研究の大家、国立博物館の小林達朗氏は「(知られている伝絵の最も古い)高田本下巻第七段の詞書中の『平太郎』は『平』に修正されているが、最初は『忠太郎』と書かれていたことがわかるもので、『忠太郎』もしくは『中太郎』の方が事実であったが、時代とともに『平太郎』の方が人口に膾炙するようになっていたので、後に伝絵については覚如は初めからそれにあわせたと考えられる。」(日本の美術12)

 紀州からは水戸の真佛寺さんはちょっと遠く感じますが、京都の光圓寺さんはすぐ近くです。本願寺の駐車場から徒歩で15分とかかりません。気さくな平太郎さんがそこに来られているような気がします。お参りしてみませんか。

           南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏



御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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