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親鸞聖人御旧跡めぐり(その6)「教行信証」を伝えた名刹「板東報恩寺」を訪ねて




 親鸞聖人二十四輩寺院・由緒寺院・御旧跡は茨城県を中心に関東一円に数多く知られていますが、東京都内には一ヶ寺だけ、それが「板東報恩寺」です。しかもここは二十四輩筆頭、性信房が開基です。
 私はこの3月、今、私の最大の関心事、戦時中の「金属類回収令」による傷跡を確かめるべく東京台東区谷中霊園の川上音二郎碑と同上野公園内の上野大仏を見に行きました。
 「板東報恩寺」はここに近く二十四輩巡りには欠かせない寺院だと思っていましたので、この機会にと足を伸ばしてみました。JR上野駅から徒歩で15分、東上野6丁目、大通りの喧噪から少し離れた町中に同寺を訪ねることができました。山門柱には寺号とともに「親鸞聖人直弟?四輩第一番」と書かれた分厚い表札が掲げられています。門をくぐると、正面本堂の外観は伝統的な和風寺院ではありますが、主要な構造は鉄筋コンクリートのようです。東京の真宗一般寺院としては破格の大きさのように感じました。
 ウイキペディアによると寺歴について次のような記述があります。

 「元は下総国横曾根にあった真言宗の荒れ寺「大楽寺」を性信が念仏道場として再興したのが創まりである。
 慶長5年に兵火によって焼失し、寺基を江戸に移す。はじめは外桜田に移し、寛永20年(1643年)に八丁堀へ移転する。明暦3年(1657年)1月18日の明暦の大火により、浅草本願寺東門内の広沢新田に移転する。文化3年(1806年)3月4日の文化の大火により、浅草本願寺とともに焼失する。文化7年(1810年)、上野に寺基を定め現在に至る。
 横曾根の跡地は文化3年(1806年)に本堂が再建され、はじめは「聞光寺」と号し、後に坂東報恩寺支坊になり「下総報恩寺」と通称される」

 江戸時代には境内拝領地3160坪、寺中寺院を13ケ寺を有する大寺院でした。今もその大本堂や鐘楼、保持している法宝物にそのなごりを見ることができます。しかし、このお寺が最も知られるのは聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)板東本を近年まで伝持したことでしょう。(右上の図は絵葉書のケース)
 開基性信房は文治三年(1187)(聖人より14才年下)常陸国鹿島の出、、19歳のとき上洛して黒谷に法然上人を訪ね、他力本願の教えに帰依。この時、法然上人は高齢であったため、彼を高弟である善信房綽空(当時の親鸞の名)に託したと伝えられます。ここで聖人にとっても生涯初めての師弟の契りが結ばれました。そして法名を「性信」と賜り、それからは聖人のいるところ必ず性信房の姿ありといわれ、常随眤近の弟子となりました。

 聖人から最も厚い信頼を受けており、聖人が承元の法難に連座し越後に流罪に処された折も、関東への御教化にも付き随ったとも伝えられます。(右「御絵伝」第3幅第5図、笈を背負っているのが性信房、中央が親鸞聖人)聖人の帰洛後も、聖人の願いにより関東に残り、下総国横曾根(現在茨城県常総市)に報恩寺を建立し、横曾根・飯沼を中心とする横曾根門徒の中心的人物となりました。親鸞聖人の子善鸞が起こした異端事件では、その解決に尽力したことで知られています。
立教開宗の書とも言われる「教行信証」は聖人の関東時代稲田の草庵に住していた元仁元年(1224年)に一応の完成をみたと言われるものの晩年に至るまで推敲を重ねていたことは多くの補訂をみれば明らかです。この書は「御本典」と呼ばれ聖人の御信心のすべてを、体系的に説き明かした真宗最高の聖典に位置づけられます。この草稿本を託されたのが性信房であったということは、いかに聖人の信頼が厚かったかを物語ります。ちなみに「教行信証」には鎌倉時代に遡れる「清書本」と呼ばれるものが西本願寺本と専修寺本の2本がありますが、いずれも聖人の門弟が書写したものです。

 「坂東本」は現存する唯一の真蹟本であり、「坂東本」という通称はここ坂東報恩寺が所蔵してきたことにちなみます。「坂東本」は早くに坂東報恩寺から真宗大谷派に寄贈されています。関東大震災時、「板東本」は当時の浅草本願寺(現在東本願寺派本山東本願寺)の金庫に保管されていましたが、猛火の中、かろうじて残ったと伝えられます。今、出版されている複製本を見ますと、この時のものでしょうか巻頭の「総序」と教文類一の大半(10ページほど)には痛々しい焦げ跡があります。
「板東本」は昭和27年に国宝に指定されています。大谷派が宗祖750回遠忌を記念して改めて最新の技術で「板東本」の複製を試みた折、「角筆」による書き込みが数多く発見されたと報じられました。今後、これを基に執筆にあたった宗祖の深い思いが解明されてゆくことが楽しみです。なお、板東本は現在、京都国立博物館に預託されています。
 この日、本堂に人の気配がしましたので、入堂させていただきました。外陣には職員と思しき方がお二人、お一人は仏具のお磨き中、もう一方は作務衣姿で外陣に設けられた番台で事務を執られていました。この方がいろいろとご説明下さいました。

 まずお内陣を拝見してビックリ、正面に本尊阿弥陀如来と宗祖の御木像が左右に並んで配置されているのです。「両面安置」といって、本堂と御影堂をひとつにした形式で確か、昨秋旅した越後の「本願寺国分別院」や「柿崎御坊浄善寺」が同じ荘厳であったことを思い出しました。(写真は同寺で頂いた絵葉書より)
 内陣の親鸞聖人像は聖人が帰洛される折、関東の同行へ残された63才の御真影、開基性信房は絵像としてそのお姿を拝することができます。
 板東報恩寺の本堂は関東大震災で消失したのち、昭和10年に鉄筋コンクリートで再建したため二次大戦の東京大空襲にも耐えたと伺いました。
 板東報恩寺は大谷派の仏教学の賢哲、板東性純先生の生家であり、ご住職をされていたことを思い出し件の職員にお尋ねしたら、2004年にお亡くなりになったとのこと。内陣、正面に向かって左余間には「謝徳院釋闡了」と書かれた大きな師の法名軸が奉懸されていました。現在、報恩寺は滋賀県の禿信敬師が代務住職を務められているとのことでした。

 なお、このお寺では毎年1月12日に「俎板開き」と呼ばれる伝統行事があると教えていただきました。性信の肖像画前で、鯉2匹をまな板にのせ、烏帽子、直垂の装束をつけた四条流師範により、包丁と箸で鯉に手を触れずに料理するとのこと。ネットには次のような説明があります。「報恩寺の開基、性信上人が下総の国で教化に努めていた頃、熱心に法座を聞きに来ていた老翁に性海の名を与え弟子にした。老翁は喜び飯沼の方角に消えたが、その後、飯沼の天神社の神主の夢枕に天神様が現れ、「我が師の洪恩を謝するため池の鯉二匹を毎年必ず届けるように」とのお告げを残した。天福元年(1233)のことと言われている。爾来770年余り、報恩寺に送り届けられている鯉を、開基肖前で、四條流包丁儀式の師範が本堂中央に据えられた大俎の上で、「長命の鯉」或は「鞍掛の鯉」などの切り型で披露するのが報恩寺「俎開き」の伝統行事となっている。」お寺の行事としては大変珍しいものと思われます。(左の写真は頂いた「俎板開き」の解説プリントから)
 小一時間の滞在でしたが、職員の方から大変丁寧な説明を受け、絵葉書やお寺の縁起を記した栞を頂戴しました。私の理解力は越えていると思われますが、参拝記念に性純師の著書も一冊購入いたしました。
 その後、大谷派のお寺がたくさん並ぶ通りを東進してかつての「浅草本願寺」現在の浄土真宗東本願寺派本山東本願寺に立ち寄りました。15年ほど前に来たときに比べて境内の墓石が非常に増えていることに驚きました。



 その翌日には、旅の〆としてリニューアルした築地本願寺にお参りしてきました。教団唯一の「直轄寺院」として都市開教の拠点に相応しい姿を整えつつあります。教団人としては嬉しいことですが、東京一極集中の中、地方にある別院の護持には大変厳しい現実があります。






           南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏




御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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