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愛知県に残る代替梵鐘




 昨年の1月、2月にも愛知県の代替梵鐘のことをこのコーナーに書かせていただきました。いずれも真宗大谷派寺院でした。今回訪れた4ケ寺も大谷派の大きなお寺です。
 昨年11月、福岡行きに続き、26日に日帰りの車旅をしました。主たる目的地は愛知県一宮市、ここには花崗岩とコンクリートの代替梵鐘があるはずです。出発は朝5時半、自動車道をひたすら走らせ東海北陸道の各務原インターで降りて、犬山市犬山西古券にある願入寺を訪ねました。ありました苔むしたコンクリートの梵鐘が山門横に置かれています。
 山門の板塀にはこの鐘の来由を取材した中日新聞の記事のコピーが貼られています。その内容は以下の通り。
 コンクリート鐘は戦時中「金属類回収令」によって供出させられた梵鐘(260年の歴史があった)に代わって鐘楼を守るために作られたもので、戦後(昭和24年)に新しい鐘ができると近所に引き取られ、寺近くの木曽川沿いに置かれていた。これが一昨年12月、願入寺に戻された。新たに鋳造された鐘には先代住職(藤井徳龍師)の不戦の願いが書かれている。「・・・正しい戦いをしているという理由をつけて(鐘を)兵器につくり替えた。しかしもともと無理な戦争だったのだから、日本が負けたのである」・・・「願わくば平和音聲十方響流せん事を(平和の鐘の音が全ての命あるものに響き渡ることを願う)」 現住職藤井千龍師はこれら2つの梵鐘について「時代を語る鐘が二つ揃った。縁あってのことことなので、大切にしたい。」と語る。
 この代替梵鐘は大変大きなものですが、現在、紋様や文字は認められません。山門前にありますので、当寺にお参りするご門徒だけでなく、街ゆく人の目にもとまります。
 この後、旧川上貞奴の別荘「萬松園」、「貞照院」、「桃太郎神社」、「寂光院」を駆け足で巡り一宮市の3ケ寺へ。

 まず勝寳寺へ。門前には「親鸞聖人御旧跡」という石柱があり、「勝宝寺前」というバス亭もあります。境内は広大、代替梵鐘は境内の紅葉したモミジの下に安置されていました。極めて精緻に作られた芸術品です。鐘の最上部にある「竜頭」もコンクリート製、おそらく内部には鉄芯が入っているのでしょう。「縦帯」に浮彫された文言は「 祈必勝大東亜戦争」「祈皇軍将士武運長久」「昭和十八年三月」。「乳」の大半は失われていますが、「帯」のスジは明瞭に残っています。コンクリート塑像として秀逸の作品です。

 次に養願寺へ。門前には「蓮如上人御旧跡」とあります。境内の清掃が行き届き本堂・庫裏もお城のように大きく立派です。代替梵鐘は、墓地の中、墓石の列に囲まれるような場所に逆さに置かれていました。上部の三分の一は埋まっていますので、ちょっとみるだけでは梵鐘の形には見えません。材質は花崗岩のようです。真ん中が凹んでいるので、水がたまっています。周囲の墓石をよくみると、ほとんどが戦没者の院号法名が彫られているように思えました。おそらく節季にはこの平和を願う「石鐘」のくぼみには戦争犠牲者に対する追悼の仏花がいけられるのではないかと感じました。

 最後に訪れたのは正瑞寺。ここも本堂は大きく立派。代替梵鐘は巨大な花崗岩製。そこに添えられた碑文は次の通りです。

「大東亜戦争末期 軍需品補給のため当寺の梵鐘を供出せり。その時鐘楼保全と平和到来戦没者慰霊を願って戸田一族より石の鐘の寄贈ありしが重すぎて釣すことなく不幸な終戦を迎うこの度昭和が平成となる節目にあたり記念のため修飾して後の世につたえるものなり」
 確かに鐘楼にくらべ、大きく重そうです。「乳」も一粒ずつ丹念に浮彫されている芸術作品です。

 ネットで見る限り、愛知県や岐阜県には代替梵鐘が多く残されているようです。しかし、今回のような日帰り探索では回り切れません。いつかまた、と思いながらも車旅はっこの辺が限界のようです。
 帰路、「なばなの里」で光のイルミネーションを大いに楽しみ、帰宅しましたが、この日も自坊にたどりついたのは日付けが変わってからでした。



            南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏




御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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