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『戒厳令ニ依り開緘』




 あっという間、大したこともできず今年も年の瀬を迎えてしまいました。私にとってのライフワークになっている「代替梵鐘」の調査は春に福岡や東京で少々、夏以降は学徒出陣で戦没した叔父のことを調べていました。

 母の遺品とともにまだまだ整理がついていませんが、260通を超える手紙類の中に1通、写真のようなものを見つけました。
 封筒裏の封緘する位置に『戒厳令ニ依り開緘』と朱色のスタンプが押されています。祖父が1936(昭和11)年7月14日、東京出張した折、宿から京都の家族あてに出したものです。



 この年は、「2・26事件」があった年、軍による「戒厳令」が2月27日に発令され7月17日まで郵便物の開緘が実施されたようです。祖父は7月16日にも同所から手紙一通を出していますが、それには開緘の跡はありません。どのような基準があったのかわかりませんが、一部の手紙が抜き取られこのような措置を受けたようです。

 この手紙の中身は全くの私事、祖父の出張にあわせ、高女生であった長女(私の伯母)と次女(私の母)の子ども2人だけで夏休みを利用して東京に遊び(?)にゆくことについての汽車旅行の楽しみや旅行中の注意書きです。

 この手紙を読んで祖母が祖父に送った7月16日付けの手紙にこんなことが書いています。
 「6銭切手貼付の第一信に『戒厳令ニ依り開緘』との大きな判を押して開封されたあと歴然 厚い手紙の上 差出人が「徳生」などと乱暴にかいてありましたからでせう もっとはっきりとお名前をおかきやしたらよろしおすわ」
 と冗談めかしく祖父を叱っております。

 手紙の内容は軍事機密とは全く無関係、家族あての私事のみ、こんなものまで権力が盗視する時代。
 この後の軍部の暴走はとめどなく深化し、日本社会、アジアの国々、そして私ども一族にも取り返しのつかない事態を引き起こしました。
 12月8日は「成道会」お釈迦様が菩提樹の下でお悟りを開かれた日とされますが、日本軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃、マレ一半島に上陸したアジア・太平洋戦争の開戦記念日、1931(昭和6)年の満州事変から続いた「15年戦争」の節目となった日です。

 今年、私どもがお預かりしている墓地で2件の戦没者の「墓じまい」がありました。いずれも管理されてきた縁者が遠くに在住され、その方の祖父の兄弟(もちろんお顔も存じ無い方)の墓ということで、これ以上、次世代に答拝することを願うのは無理とご判断された結果です。
 来年は戦後75年、戦争の傷は癒えません。今も地球上に戦火が消えることがありません。

 仏説無量寿経にこうあります。
「佛所遊履 国邑丘聚 靡不蒙化 天下和順 日月清明 風雨以時 災歯s起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲」
【仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよいときに降り、災害や疫病(えきびょう)なども起こらず、国は豊かになり、 民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、 あつく礼儀を重んじ、互いに譲(ゆず)り合うのである】

 このような日々を早く迎えたいものです。




          南無阿弥陀仏   南無阿弥陀仏
 

御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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