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真宗の寺には御朱印がないのですか




 ご門徒さんにもよく聞かれることですが、「真宗の寺には御朱印がないのですか。」と。
 昨年11月、築地本願寺の報恩講にお参りした時、本堂でのお勤めの最中ですが、賑やかなおばさんたちが入ってきました「御朱印はどこで頂けるの」と布袍輪袈裟の職員に尋ねています。「ここには御朱印はありません。そこにスタンプがありますので、どぞう参拝記念に押して行ってください」と答え、数種類のスタンプが並んだ机の前まで案内していました。「 スタンプってなんかちょっと頼りないわね。」と少し「不満」を漏らしながら朱印帖のようなものにそれらを押して、さっさと出て行かれました。(写真はこの日築地本願寺に用意されていたスタンプ)

   


     

 私は、真宗十派の本山によく参拝しますが、東西本願寺にこそありませんが、それ以外では近年、十派本山にも結構、朱印が用意されています。高田本山専修寺、仏光寺派本山仏光寺、出雲路派本山毫摂寺、木辺派錦織寺には確かにありました。二十年ほど前にはなかったように思いますが、近年の「御朱印ブーム」の影響でしょうか・・・・。
 大谷派の別院でも見ました一昨年、富山を旅したおり、参拝した城端の善徳寺や井波の瑞泉寺はいずれも蓮如上人ゆかりの大別院です。境内にご朱印の案内掲示がありました。関東の親鸞聖人二十四輩寺院を巡っていますと、その中にも御朱印が用意されているところがあって驚かされました。わが、本願寺派でも、別院や教堂にはないと思いますが、ネットでみると一般寺院の中には結構あるようです。
 築地本願寺には御朱印について、スタンプ台の横に次のように記された説明板がありました。「なぜ築地本願寺には、『ご朱印』が置いていないの?ご朱印とは、追善供養のために写経したものを寺社に奉納した際にいただく受取印が起源なので、追善供養を行わない浄土真宗にはご朱印がないのです。」事実殆どの真宗寺院では御朱印に対応していないというのが現状でしょう。
 東本願寺にお参りしたとき頂いたリーフレットに 「朱印をしない理由」という一部がありました。大谷大学の一楽 真 教授が執筆して下さったものです。私にはまとめる力がありませんので以下にそのまま転載させていただきます。

  「朱印をしない理由」

 そんなに古い歴史をもつわけではありませんが、参拝した記念に朱印を押してくれるところが数多くあります。寺の名前や仏教の言葉などが添えられる場合もあります。
 回ったお寺の数だけ朱印が増えていくことは楽しみでありましょう。また、八十八箇所とか三十三所というように決められた場所をすべて回ったときには、何らかの達成感があることもわかります。
 でも、ちょっと待ってください。お寺とは朱印を集めるためにお参りするところなのでしょうか。それならば、一度朱印をもらえば、二度とお参りすることはないでしょう。大事なのはお参りしたことがあるかどうかではなくて、お参りして教えに出遇(あ)ったかどうかです。また、どんな教えに出遇ったかということであるはずです。
 浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、師の法然上人との出遇いをとおして、生涯を「ただ念仏」の教えに生きられた方です。それは念仏を称える時、どんな者も 決して見捨てることのない仏の世界が、いつでも憶い出されてくるからでした。逆の言い方をすれば、貪(むさぼ)りや憎しみの心に翻弄(ほんろう)されて、何が大切であるかをすぐに見失っていく自分であることをよく知っておられたからでした。
 私たちはどうでしょうか。一度お参りしたから大丈夫とか、教えはこの前に聞いたからもう聞かなくてもいい、などといえるでしょうか。さまざまな問題が次々と起こってくる状況の中で、何を本当の拠(よ)りどころとして生きていくかが、いよいよ問われてきているのが現代です。お寺を回ったというような達成感に腰を落ち着けてしまうのではなく、教えを聞き続けようと立ち上がる必要があるのではないでしょうか。
                            一楽 真 大谷大学教授

 遅々としてなかなか進みませんが、私は「真宗十派本山報恩講巡り」や「西本願寺グランドツーリング(全国別院巡拝)」のスタンプラリーを楽しんでいます。御本山や別院の立派な報恩講法要にあわせていただくご縁づくりとしてこのスタンプラリーは意味があります。
 日高別院、安養寺、天性寺、専福寺、三宝寺で行っている毎年の「御坊組報恩講法要すたんぷらりー」ももっともっと広がればと思っています。
 「御朱印」もお寺にご縁を結ぶ方途としては否定しませんが、どうかこれを聴聞のきっかけとしてお寺の法座に繰り返し繰り返しお参りしていただきたいものです。


          南無阿弥陀仏   南無阿弥陀仏

 

御坊組組長
湯川逸紀(三宝寺住職)


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