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完成!五帖一部御文章



 「御文章」といえば、お仏壇の前に置かれた大きな黒塗りの平らな箱をイメージされる方が大半でありましょう。中にはやわらかい黒表紙の分厚い書物が入っており、多くは漢字まざりのカタカナの大きな文字がびっしり。ご法事のとき、ご住職がお勤めや御法話が終わったとき、「肝要は御文章にて」と恭しく頂いて朗々と拝読してくださいます。これは蓮如上人が門徒に与えて下さった文(ふみ)を集めて編集されたものです。

 西本願寺では「御文章」、東本願寺では「御文」と呼んでいます。蓮如上人が千の物を百に,百のものを十に,十のものを一に選んで,教義の要をわかりやすく説いたもので,いずれも書簡文の形式をとった一紙法語です。
 蓮如上人が御文章を本格的に書き始めるるのは、文明三年(1471)、蓮如上人が吉崎に移ってからのことです。蓮如上人が書いた御文章の数は多く、現在、知られているものだけでも二百二十余通に及んでいます。
 御文章はきわめて多く書かれているとはいえ、蓮如上人が御文章で主張しているのは一つのことだけです。それは、信を得よ、ということです。このうち、20〜30通が一冊にまとめられているのが、ご家庭にある御文章です。

 機会は多くありませんが、寺院やご門徒宅で非常に大きな御文章箱を目にすることがあります。「五帖一部」と称されるもので、蓮如上人の孫円如上人が数多くの御文から80通を選び、5帖にまとめられたものです。1帖〜4帖は制作された年次順に配列、5帖目はそれが不明のものが集められています。
 御家庭にある「御文章」はこれらから選ばれた(五帖目が多い)御文が集められています。これは「御加(おくわえ)御文章」と言われますが、 開版された時代、御門主によって選ばれる御文が異なります。
 しかし、五帖一部本があまりに大部のためか、「御加」本が古い時代から御文章として門徒方に広まったようです。

 昨年1月の御坊組ホームページの「雑色雑光」に「『御文章』にもあった『令和』」と題して拙文を投稿させていただきましたが、(今でも「過去の雑色雑光」はこのHPで読むことができます。)今回はその後日談です。

 K家が「五帖一部」本を所蔵していることを知ったのは、一昨年12月、総代を勤めて下さったK氏の葬儀の時です。それは有難いことにすべて手書きで、拝読用に句読点や引印が朱で入っています。よく拝読されたのか五帖目の表紙はだいぶ擦り切れています。K家は入山三宝寺門徒のうち、最も古くから続く家系で、代々篤信家であったと伝わります。書写された年から筆をとったご先祖も容易に推察されます。

 ところが、残念なことに、五帖のうち、一帖と四帖が欠落しているのです。まことに残念。どのような事情があったのか、今となってはわかりません。


 K氏の四十九日法要の折、奥様弘子さんが私にこう仰って下さいました。

 「失ったままになっている一帖と四帖、私が書かせていただいてもかまいませんか。」

 弘子様は書道の心得があり、近所の子供たちに習字を教えておられます。なんと有難いことでしょうか。
 もちろん私は大賛成。底本として三宝寺所蔵の寂如上人本と准如上人本を使って頂くことにしました。弘子さんの完成目標は12月に予定しているご主人の一周忌です。
 弘子様はそれから、ご自身の書道の師である有田市糸我得生寺のご住職からアドバイスを頂き、他の帖に近い料紙や墨を調達されて書き始められました。実に丁寧に書写されてゆきました。
 昨年夏にはほぼ完成、私に校合が任されましたが、誤りは皆無。素晴らしい1・4帖が仕上がりました。深緑色のやわらかい表紙を和綴じした見事なご文章、二百年ぶりの「五帖一部」の復活です。
  

 ご主人の一周忌にはもちろんこの御文章を拝読させて頂きました。まことに意義深いことでありました。また、弘子さんは、このお正月には三宝寺本堂の御本尊にも孫さんたちとご一緒にそれをもってご奉告に見えてくださいました。遠くのご先祖からのお念仏のバトンが間違いなく子どもたちに伝わりました。とてもうれしいお正月でした。

                     南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

                            入山三宝寺住職 湯川逸紀



補足
 五帖一部の御文章箱は、5冊全部が納まる大きなものもありますが、2冊と3冊に分けて納めるものもあります。三宝寺に伝わる寂如本はこのタイプです。K家のものも、これからの使用、保管を考えて2箱に分けられました。


 










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