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お盆のお荘厳は代替仏具の三具足



 お盆中8月15日は終戦記念日、今年は76年目となりましょうか。しかしあのアジア・太平洋戦争の引き金となった「満州事変」の開戦からは90年、この「15年戦争」の中で、日本人の死亡者は軍人、軍属、民間人あわせて310万人、第二次世界大戦の世界全体の犠牲者は8000万人を越すとも言われています。

 7月、8月、9月は戦争犠牲者を悼み、平和を希う月間です。新聞やTV番組ではあの戦争の新たな事実が掘り起こされ報道されます。不都合な事実も解明され、国民のものにしなければ、再び惨禍を招くことになりましょう。


 毎年、三宝寺ではお盆の本尊前卓のお荘厳は戦時代用仏具の陶製の花瓶を使っていましたが、燭台と香炉がありませんでした。今年はそれらが二組揃っている常徳寺様から一組お借りして三具足を揃えました。陶製仏具は昭和17年から厳しくなった「金属類回収令」によって各寺が供出させられた金属製仏具の代用品です。戦争の記憶を伝えるためにも、今後ともお盆の荘厳はこの形にしようと考えています。

 半年ほど前、母の実家(京都市)に住む、従兄の奥様から戦没した母の弟の遺品類が贈られてきました。その中の手紙の1通に GHQによって開封されたことを示すスタンプとテープが貼ったものがありました。宛名の「山根きよ」は母の母、私の祖母です。
 「山根きよ」の長男(母の弟で唯一の男子)山根明氏は1944年12月に20歳になったばかりで学徒出陣、中国戦線に送られましたが、劣悪な食糧事情で半年もたたぬうちに極度の栄養失調に陥り、「1945年7月8日、中国長沙の野戦病院で戦病死した」と伝わりました。しかし、その報を家族が知ったのは、終戦の翌年5月16日になってからでした。俄かに信じがたかった、信じたくなかった両親は明氏の死の真相を知るために、多くの元軍関係者に手紙を送ってその情報を求めたようです。その返事の一通がこの手紙です。差出人は復員した明氏の上官N氏、内容は部隊の行動を簡潔に述べたもので、両親の求めていた情報ではなかったと推察できます。

     

 当時、軍関係者(上位者)が発信元となる郵便物は、GHQの検閲対象となったようです。封筒には独特のスタンプと開封を繕うテープが貼られています。実際GHQはかなり幅広く(労働運動家や政党活動家などの)郵便物の開封・検閲を行っていたことが明らかになっています。

 私はここ数年、全国で代替梵鐘を見てきましたが、終戦直後、「祈必勝大東亜戦争」や「祈皇軍将士武運長久」などと刻まれた代替梵鐘の多くで「寄進者」名が削りとられています。(左の写真は大垣市大運寺(浄土宗)境内にあるコンクリート製の代替梵鐘)また、郡内一部の小学校の戦時中の校務日誌に黒塗りの箇所やページの欠落が認められるのは、GHQの追及を恐れてのことかと考えられます。

毎年、宗門は9月18日(満州事変開戦記念日)東京の国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で「全戦没者追悼法要」を厳修します。これは、戦争によって尊いいのちを失われたすべての方がたを追悼し、悲惨な戦争を再び繰り返してはならないという平和への決意を確認するために行われもので、1981(昭和56)年に始まり、本年、第41回目を迎えます。西本願寺はこれに合わせ全国の寺院に梵鐘を撞くよう呼びかけています。

 今年のお盆は、雨雨雨でお参りに行くのも、寺にお越しいただくのも大変なことでした。三宝寺の本堂には、毎年お盆と正月には、「美浜オーキッド」を経営されているご門徒のH氏から見事なコチョウランがお供えされます。また、U氏からは外陣香炉の余台が寄進され、本尊前でのお焼香がとても楽になりました。

 まだまだ暑さが続きますが、どうかみなさま、コロナに気を付けお念仏の生活に励まれますよう念じております。




                     南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

                            入山三宝寺住職 湯川逸紀












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