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エッー、西本願寺は「除夜の鐘」は撞かないの?



 12月、もうすぐ大晦日、いろいろあった一年。年をとると、自分の身を含め身辺に大事がなければ良い一年とせねばならないようです。
 近頃の歌手の歌についてゆけなくて、大晦日恒例のTV番組「紅白歌合戦」を見なくなってもう20年以上になりますか、ただ、その番組が終わってからの「ゆく年、くる年」を見る習慣は残っています。午前0時が近づくと、全国各地のお寺から「除夜の鐘」中継となります。みな深みがあって耳の奥まで響いてきます。
 そこでは毎年、古刹、名刹が紹介されますが、不思議なことに全国屈指の大教団の本山である東西の本願寺の「除夜の鐘」が紹介されることはありません。

 独特の撞き方をする知恩院や雪の中の永平寺はよく見ますが両本願寺はありません。
 なぜか?答えは、「除夜の鐘」は撞かないからです。どちらの本願寺も近年新調された大梵鐘が立派な鐘楼に収まっています。どちらも大変大きなもので、旧梵鐘が、西本願寺は 阿弥陀堂の正面にある「お茶所」の中に、東本願寺は阿弥陀堂門をくぐったところに新鐘楼を建て、その中に安置しています。 どちらもつるされてはいませんので、音を出すことはできませんが、梵鐘の巨大さは実感できます。
 それぞれの新鐘はお西さんは「国宝飛雲閣」のある滴翠園内に建つ鐘楼にありますが、普段は非公開となっています。お東さんは境内地内の南東に立派な鐘楼にあります。それらが「除夜」には撞かれないのです。

 西本願寺が梵鐘を撞く意味は法要の始まりを知らせる「集会鐘」です。法要の1時間前に撞かれます。毎日の晨朝(おあさじ)の始まりは午前6時30分ですから、朝5時30分から撞かれます。また恒例の法要1時間前にも撞かれます。

「除夜の鐘」の意味について『日本大百科全書』にはこうあります。
 「12月31日(旧暦30日)大晦日の夜半から元日にかけて、寺院で梵鐘を108回つくこと。百八の鐘ともいう。中国宋(そう)代から始まったとされる。108の数については、凡夫の煩悩を108種とし、その消滅を祈念するといわれるが、数え方には諸説ある。
いずれにしても除夜の鐘をつく理由は、今年一年の苦しみや悩みを取り去り、新しい晴れやかな気持ちで新年を迎えるという意味に変わりはありません。」

 「人間構学研究所 山口成隆 ポン太先生 勝手気ままな お気楽ブログ」に次のような記事がありました。(2012-12-31)
 
 妙心寺、延暦寺など、仏教教団でも「除夜の鐘」は鳴らすんだけど、不思議と東西両本願寺は鳴らさない。「教義に合わない」というのが理由らしい。《ゴォ〜ン》
 東本願寺(真宗大谷派本山)にも立派な梵鐘があるのよ。阿弥陀堂の前に、1604(慶長9)年に鋳造された梵鐘があって、毎朝、日の出の頃に鳴らされたり、儀式や法要、時刻を知らせている。
 同派教学研究所員の竹橋太さんによると、そもそも、同派では108つの煩悩を除くという考え方をしないという。
 「煩悩があると分かることが親鸞さんの教えで、煩悩を打ち消すということはありえない。だから108の煩悩を払うという思想がない。煩悩をなくすことがいいことだという答えを求めるが、答えを求める自分が煩悩なんだと。自分は煩悩以外の何者でもない。だから煩悩を絶つことはないのです」。
 西本願寺(浄土真宗本願寺派)でも同様に、除夜の鐘を鳴らしていない。んねぇ〜、『なるへそ〜』でしょ

 私は真宗本願寺派の僧侶でありますが、本山西本願寺が「除夜の鐘」を撞かない理由が上記大谷派の竹橋先生のお考えと一致するものかはわかりませんが、親鸞聖人が 我々人間のことを「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」(煩悩まみれの人間。それこそが、真実の自己の姿である。)と見抜いておられます。(煩悩とは、私達を悩なやみ煩わずらわせる心のことです。)このことを重く受け止めれば、煩悩を自力を頼んで断じようとすることに意味があるとは思えません。
 しかし、現実には本山は別にして梵鐘がある真宗寺院で「除夜の鐘」を撞かないお寺は少ないのではないでしょうか。全国の「直属寺院」と呼ばれる別院・教堂を含め一般寺院もこぞって撞かれているようです。
 新年を迎える大切な寺院行事として取り組まれ、門信徒以外の方や子どもたちもにぎやかにお寺に集まってくる楽しい行事になっています。そこでは煩悩の除去などはあまり意識されていないように思えます。

 私の自坊三宝寺はどうかというと、「除夜の鐘は撞いていません」理由は、「梵鐘がないから」です。戦争で供出したからではなく、もとより小さな寺で、梵鐘・鐘楼を備えるご縁(円)がなかったようです。どなたかから御寄進頂ければ喜んでお受けいたします。


                     南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

                            入山三宝寺住職 湯川逸紀












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