(過去の「雑色雑光」はこちらからどうぞ)

おはよう!行ってらっしゃい! 


 「おはようございます」
 「おはよう、いってらっしゃい」


 月に何度か、朝、小学生とかわす短い挨拶です。

 教員を退職して、教員時代の先輩から誘われた子どもたちの見守り活動です。
 入山御倉橋東詰と和田中央公民館前交差点に立ちます。
 見守り隊の仲間はみな高齢者、目立つ柿色のビブスを着て、「横断中」と書いた黄色の小旗を持って孫のような子どもたちの道路横断をサポートします。

 ネットで「挨拶」を引くと、こうありました。
 挨拶という言葉は、もともと仏教語で禅の用語でした。
 仏教語での挨拶の意味は、前にあるものを押しのけて進み出ることをいい、禅家では、「一挨一拶(いちあいいちさつ)」といって、門下の僧に押し問答して、その悟りの深浅を試すことだったのです。
 そこから転じて、人との出会いや別れる時などに取り交わす儀礼的な動作や親愛の言葉を表わすようになりました。出会った相手に対して、敬意や感謝の気持ちを表わすこと、またその動作や言葉を挨拶というわけです。


 よく聞かせていただく仏語に「和顔愛語 先意承問」があります。
 この言葉は、宗祖親鸞聖人が真実の経典として最も大切にされた浄土三部経のひとつであります『仏説無量寿経』の中にある言葉です。
 法蔵菩薩が積まれた菩薩行のひとつとして、「和顔愛語にして、意(相手のおもい)を先にして承問す」即ち、相手の身になって和やかで穏やかな笑顔と慈愛に満ちたあたたかい言葉を発し、相手の気持ちを慮って先んじて動くこと、仏の智慧に支えられた菩薩はこのような生き方をされると説かれています。


 昨年の本山立教開宗記念法要後に、ご門主様より「『浄土真宗のみ教え』についての親教」を頂きました。


 南無阿弥陀仏
 「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声
 私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
 「そのまま救う」が 弥陀のよび声
 ありがとう といただいて
 この愚身(み)をまかす このままで
 救い取られる 自然の浄土
 仏恩報謝の お念仏
 み教えを依りどころに生きる者となり
 少しずつ 執われの心を 離れます
 生かされていることに 感謝して
 むさぼり いかりに 流されず
 穏やかな顔と 優しい言葉
 喜びも 悲しみも 分かち合い
 日々に 精一杯 つとめます

 私は挨拶もこの実践の入り口のように思います。「おはようございます」がひらく明るい一日、まず私の口から申しましょう。
 ほら、黄色のカバーをつけた大きなランドセルを背負った新入生がやってきました。「おはよう!行ってらっしゃい!」


              南無阿弥陀仏   南無阿弥陀仏


                            三宝寺住職 湯川逸紀










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