(過去の「雑色雑光」はこちらからどうぞ)

やせ蛙 負けるな一茶 是にあり 


 今年の梅雨、非常に雨が少なく、いつもなら、自坊の小さな池でもカエルの合唱が少々うるさく感じてきましたが、今年はそうでもありませんでした。

 もう5年前になりますが、戦時中の「金属回収令」によって供出させられた梵鐘の代わりに今も吊るされている「石の鐘」を見るため長野県信濃町にある稱名寺を訪ねたことがありました。

 途中、北斎ゆかりの観光地小布施に立ち寄りました。「北斎館」で数多くの北斎の肉筆画を堪能した後、最晩年の大作天井絵「八方睨み鳳凰図」を観るため岩松院まで脚を伸ばしました。
 ありました。21畳の本堂の天井いっぱいに描かれた鳳凰像、これまで一度も色の補修はなされたことがないといいますがまったく色褪せはありません。大変な迫力で参拝者に迫ってきます。
 岩松寺は「賤ヶ岳の七本槍」の筆頭として知られる戦国武将福島正則の菩提寺ですが、私の関心は俳人小林一茶との関わりです。ここは一茶の故郷柏原までそう遠くありません。 本堂の裏庭に小さな池があり、「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」という一茶直筆の句碑があります。


 この句は一茶が病弱な初児 千太郎を想って詠んだと言われています。「やせ蛙」は愛児に重なります。
 一茶は5人の子供に恵まれますが、この長男千太郎をはじめ、長女、次男、三男は早くに亡くなり、成人なるまで生きた次女が生まれたのは父である一茶が亡くなってからだと伝わります。

 一茶の死後発表された句集「おらが春」は長女サトのことから始まります。お正月に

  こぞの五月生れたる娘に一人前の雑煮膳を居へて

   這へ笑へ二ツになるそけさからハ

    文政二年正月一日

と、心から楽し気に詠んだ日から半年、その娘が疱瘡で亡くなってしまいます。 「おらが春」の「露の世」と題された一文に「楽しみ極まりて愁い起こる、うき世のならひなれど・・・」と書き出し、娘の病状を述べ、 「・・・益々よわりて、きのふよりけふは頼みすくなく、終に6月21日のあさがおの花と共に、此世をしぼみぬ。母は死顔にすがりて、よゝよゝと泣くもむべなるかな。・・・」 と悲しみに打ちひしがれているている様子が書き留められています。そのあとにあるのがこの句。

  露の世は露の世ながら さりながら

 瀬戸内寂聴さんは「寂庵だより(今月のことば2001年3月)」でこの句についてこのように語っています。 「この世は露のようにはかないものだとは、かねがね知っていたけれど、それにしても可愛いわが子がこんなにはかなく死んでしまったとは。何という悲しいこの世のはかなさであろうか」という悲しみの心をそのまま詠じたものである。 「さりながら」の五文字に込められた一茶の逆縁の歎きの悲痛さが心に迫ってくる。」

 この世は露のようにはかないものだと知ってはいても、それでもやはりあきらめ切れない 親心がにじみ出た句です。亡き子を思う親の切なさが胸を打つのは時代を越えます。

 なお、一茶が詠んだこのカエルはアズマヒキガエルでこの池で産卵するため山から出てきたもので、数少ないというメスをめぐってオスたちが争う様子を詠んでいます。季節は毎年四月二〇日ごろということです。

              南無阿弥陀仏   南無阿弥陀仏


                            三宝寺住職 湯川逸紀










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