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西川好次郎先生のこと 




 この写真は、郷土が生んだ偉大な作詞家西川好次郎師を讃える碑 、師の名は知っておりましたが、 このような立派な碑が日高川町役場美山支所近くにある師の自宅(かじか荘)傍に建てられていることは十月十六日に行った「年金者組合秋の散策」の下見で中谷澪子、高尾光子両先生から教えて頂くまで全く知りませんでした。
1985(昭和60)年に地元の方々の浄財で歌碑とともに建立されたようです。


 私は、日高郡美浜町生まれ、和田小学校、松洋中学校、日高高校で学び、後には長年、郡内の高校、日高高校(全・定・分)南部高校で教鞭をとりました。 式典の折には、「校歌斉唱」がありますが、その歌詞のすべてが「西川好次郎」作詞であったことを記憶しています。 今、それぞれの歌詞は断片的にしか頭に残っていませんが、どれも子どもたちへの激励とふるさとに対する敬愛に満ちていたように思います。 最も多く歌った日高高校の校歌にある「ふみ進む 真理の道(1番)」「 鳴りひびく 自律の鐘(2番)」「 とこしえの 平和のさま(3番)」は高校生が目指すべき方向を示しているように思えました。

 ウイキペディアには氏について「明治三六年に寒川村、垣口家で誕生し、川原河の西川家に養子に入り『西川』姓となった。 小学校高等科を卒業後は植林の仕事に就いたが、やがて尋常小学校の訓導となった1934(昭和9)年、 報知新聞社が皇太子(明仁上皇)の生誕を記念して歌詞を一般公募した「皇太子殿下御降誕奉祝歌」で応募作が全国から寄せられた約5800編の中から一等入選で採用され、 東京音楽学校の作曲によりキングレコードから発売される。 審査委員の佐佐木信綱は入選作を「荘重、雄快の作に加えて作曲上の字脚、音楽的効果、詩趣のゆたかさのこもったもの」と称賛し、 名声を得た西川の元には全国の学校から校歌の作詞依頼が相次いだ。」とあります。

 その旺盛な作詞活動は良く知られ、数多の県内学校校歌は勿論、1948(昭和23)年の「和歌山県民歌」(作曲・山田耕筰)を筆頭に 県内外の市町村歌や音頭・小唄に至るまで数多くの作品を手掛け、1976(昭和51)年に和歌山県文化功労賞を受賞しました。 地元川原河小学校のすばらしい校歌も作曲山田耕筰、作詞西川好次郎です。

 30年ほど前、たまたま読んでいた本に師の戦時中の作品の一つを知ることができました。 「心に残る とっておきの話」(潮文社 平成5年発行 178頁)にある阿部善勝氏が書かれた文章中にあるものです。
 昭和十五年「皇紀二千六百年」で全国挙げての奉祝行事の一つで、当時日本の植民地支配下にあった朝鮮を讃える「朝鮮賛歌」の作詞、作曲を朝鮮放送協会が全国に公募したものです。 まず歌詞が募集され西川好次郎師が応募、見事、一等入選を果たされました。続いて作曲募集があり当時、北朝鮮で国民学校の訓導をしていた阿部善勝氏(当時30歳)の作品が一等入選に輝きました。

 そしてこの西川好次郎作詞、阿部善勝作曲の「朝鮮賛歌」が全国放送(日本・朝鮮)で流されました。その歌詞がこれです。

 一、御稜威(みいつ)に晴れて 陽は躍る 十三道の 朝ぼらけ きょう歓びの 声みちて
    紀元は二千六百年 迎える幸の めでたさよ
 二 世紀の風に 咲きにおう 大半島の 新文化 見よ 弥栄(いやさか)の 道ひとつ
    こぞりて歩む 邑衢(むらちまた) あけゆく日々の うれしさよ
 三 内鮮一(いつ)に 組み結ぶ 産業陣の 心意気 いま曳々(えいえい)と
    谺(こだま)して 宝庫の扉 押し開く したたる汗の 尊さよ
 四 力となりて 身に宿る 金剛山の この意気 ここアリナレの水ゆれて 興亜の声を
    波に聞く 山河も勢(きお)うかがやきよ
 五 平和の春を 呼びひらく 前衛ここに 起つわれら おお感激は 火も燃えて
    凛たる銃後 うち築く 兵站基地の 雄々しさよ

 前記の書の文によると、筆者の阿部氏は一九九二年春の全国高校野球選抜大会をテレビで観戦していた時、一回戦で勝利した南部高校の校歌が流れ、画面の嬉しそうに並んだ選手の後に歌詞と作詞者名が書かれたテロップが写されました。 氏の奥様がそこに、「作詞 西川好次郎」の名前を見つけられ、ご夫婦に戦時中の記憶がまざまざと蘇ってきたそうです。 当時、阿部善勝氏は北朝鮮で小学校教諭(国民学校訓導)をしており、「皇紀二千六百年 奉祝記念事業として募集されたこの歌(すでに西川好次郎氏による歌詞は決定していた)の作曲に挑み、みごと一等に当選されたのです。

 氏の文によるとお二方ともこの戦争に出征されるも無事帰還されました。戦時中一度の文通はかないましたが、その後、音信が途絶え、このテレビ放送の後、氏は南部高校に問い合わせ西川家の住所を知ることになります。 そしてそこに連絡をとると娘さんから「お手紙ありがとうございました。何十年も昔のことを、よく覚えていらっしゃるのに、母ともども驚いています。父好次郎が元気でいたら、どんなに喜んだかしれません。八十三歳で他界、昨年は三回忌をいたしました。・・・・」と書かれていたそうです。
 良き出会いですね。私はこの曲を聞いたことはありませんが、当時ですから国策に乗じた歌詞ということにはなろうと思いますが、日本の植民地支配の一端を學ぶ教材になります。 師が戦後つくられた校歌の歌詞は、子ども健やかな育ち、平和への願い、郷土愛に貫かれていると思います。

  もう30年位前になりますか、学校現場に「日の丸・君が代」が持ち込まれ、職員会議がいつも重い空気に包まれました。そんな折、ある先生が「和歌山には、素晴らしい『和歌山県民歌』があります。 県立校は、これを歌って卒業生を送り出しませんか」と発言されたことがありました。実現はしませんでしたが、今考えても素晴らしい案だと思います。この県民歌は時々「テレビ和歌山」の県の広報番組から流れてきます。  西川好次郎/作詞、山田耕筰/作曲、心洗われる名曲です。1・2・3番とも句の終わりは「ふるさとはつねに微笑む」と結ばれます。本当にこの身を温かく包んでくれる歌です。

 子どもたちの未来を明るく照らして下さった作詞家西川好次郎先生は郷土の偉人です。来年は生誕120年になります。

              南無阿弥陀仏   南無阿弥陀仏

                            三宝寺住職 湯川逸紀










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