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義父母の納骨 


 坊守は日高川町山野の出、一人娘でした。両親の慈愛を独り占めして育ったため、父母への謝恩の念は一入です。 二人はすでに往生していて昨年、母の25回忌、父の13回忌を勤めました。 二人の胴骨は早くに山野の墓地にある「先祖墓」に収めましたが、「頂骨」はいつの日か母が望んでいた知恩院の納骨堂に納めるため、坊守の部屋に安置していました。

 父は養子で母が家付き娘、山野で生まれ、育ち、働き(教員)、命終しました。 少し早い目に勤務していた山野小学校を退職した後は、小さな米穀店を営む傍ら地域のために尽くした人生でした。 その中でも最も熱心だったのは、菩提寺地福寺さんと本山知恩院の護持でした。 「和順会」という地福寺さんの「御詠歌」朗詠会の先達として活躍し、浄土宗が奨める「おてつぎ運動」に力をそそぎ、周りの方々を誘って毎年のようにバスで本山の清掃奉仕に行っていました。 中学生であった坊守も夏休みには同行したことがあったようです。

 知恩院を総本山とする浄土宗では知恩院境内に「納骨堂」があり、檀信徒のお骨を永代に預かって下さいます。 コロナが少し収まったら、ここに実家の跡を継いだ娘家族を連れて父母の納骨参拝しようと決めていました。 2月初旬ようやく娘や孫たちの日程が合いそれを実現することができました。 父母は連れて行った孫3人には曾祖父母となりますが亡くなってからの生まれですので、写真でしか2人の顔は知りません。
 納骨手続きを済ませた後、何組か合同で御影堂で読経、焼香させて頂きました。 2歳に満たぬ孫は読経中、広い本堂を走り回り、寺の孫とは思えぬ落ち着きのなさ、先が思いやられます。 実際の納骨堂へ納めるのは後に本山の職員が行って下さるとのことでした。次に、御影堂の南東の山手にある「納骨堂」に参拝、ここに2人は合祀されることになります。 日本屈指の大梵鐘の近く、母が奉仕団で来させて頂いた折は、このあたりの掃き掃除に汗を流したのではないかと想像しました。

 当日、知恩院の境内地で面白いものを見つけました。「名号の松」です。御影堂にむかって右前にあります。 そう太くない松ですが、根本から6本に分かれているのです。(ひょとして寄せ植えかもしれません)六字名号「南」「無」「阿」「弥」「陀」「仏」を象徴しているのでしょう。 六波羅蜜寺にある口から六体の小さな阿弥陀仏が出ている空也上人像を連想させます。浄土宗(浄土真宗もですが)はとりわけ称名念仏を大切にします。 御影堂の念仏の声がこの梢を揺らし納骨堂に届くはず。きっと父母を喜ばせてくれるものと思いました。

 もう一つ、変わったものを発見、お茶を買うため、境内にある土産店の外の自動販売機の前に立ったところ、そこにある一台に「念仏を称える自動販売機」との案内があります。法然上人のイラストシールを何枚も貼っています。
 果たして150円を投入、
すると「ナムアミダ、ナムアミダ、・・・」
ボタンを押すと、木魚の音も加わった「十念」がしばらく続きます。 さすが知恩院。こんなの他にもあるのかな・・・・。


 昼食をとった後、小6の孫がコロナ禍で修学旅行がなかったので金閣寺に行きたいというので、行ってみました。50年ぶりの金閣ですが。 その神々しさ変わっていません。そこには外国人旅行者がいっぱい。「青天白日満地紅旗」を持った台湾からと思われる観光客が目立っていました。

 この日の納骨旅行はお骨になってはいましたが、義父母も一緒の楽しい旅となりました。私自身の両親の頂骨はすでに本願寺大谷本廟に収まっています。 順番通りとなれば、次は私と坊守です。子たち、孫たちが賑やかに納骨参拝をしてくれることを念じています。あまり急ぐことは望んでいませんが・・・。


                            三宝寺住職 湯川逸紀










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