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「和歌山県勢歌」と「紀州の三白」 


 「和歌山県勢歌」という歌のことを知ったのは、1月末、県立博物館を訪れた時のことです。パネル展「よみがえる和歌山県 県勢歌]と題した小さな特別展が開かれていました。山田耕筰作曲・西川好次郎作詞の「県民歌」については前にふれたことがありますが、「県勢歌」なるものは名前も知りませんでした。戦時中の昭和十四年に県が作詞・作曲を公募して決定。「和歌山県 県勢歌」は「日中戦争開戦後の『国民精神総動員』政策の下で郷土和歌山県の真の姿を讃え、愛郷精神作興に資するために創作された歌」(特別展のチラシより)ですが、戦争激化の中で殆ど歌われることなく幻となっていたようです。特別展ではその経緯を詳しく展示してくれていました。現在「特別展」は終っていますが、博物館のホームページで閲覧できます。

 五番まである歌詞は小中学校社会科の地域教材のような感じです。その四番がこれです。

「紀州みかんは日本一
 ネル・けし・漆器・梅・鯨 松・杉・檜さまざまの生産すべて三億円」

 これを目にして一つの言葉を思い出しました。「紀州の三白」これは、明治の半ば以降、有田、日高で大いに栽培され、日本一の生産高を誇った農作物を指します。いずれも花色は白。開花期、中紀の山・畑一面を白で覆った花です。それらは何でしょう。

 「みかん」、「除虫菊」そして「ケシ」です。これらの花を「紀州の三白」というと教えて下さったのは元高校社会科教員で、美浜町文化財保護審議会会長、さらには町の教育長もされた尾浦浩巳先生です。もう30年位前になりますか、私も所属している日中友好協会御坊支部(当時)で地域と戦争の関わりの一つとしてケシ栽培、アヘン製造を調査したことがありました。ある程度まとまったところで、シンポジウムを開催し、その中で尾浦先生が講師のお一人とし登壇、戦前・戦中の地方産業の推移を語って下さいました。その中でお聞きしたのが「紀州の三白」この言葉が強く私の印象に残っています。ちなみにこのシンポは大変盛況で日高教育会館の2階がいっぱいになったことを懐かしく覚えています。

 有田のみかん栽培の歴史は、室町時代にまで遡ると言われます。地と人に恵まれ今日まで営々と栽培し続けられ「有田みかん」のブランドは揺るぎません。
 除虫菊は外来の植物ですが、その栽培、加工の中心となったのは有田市、「金鳥の夏、日本の夏…」のテレビコマーシャルでよく知られる「大日本除虫菊株式会社」(後のライオンケミカル株式会社)の起点となった『山彦除虫菊株式会社』はこの地の上山彦松氏と上山甚太郎氏が設立したものです。

 除虫菊は正式にはシロバナムシヨケギクというキク科の多年草で、胚珠の部分に含まれるピレトリンが殺虫剤の原料に使用されていました。しかし現在では、同社がより除虫効果の高い化学物質を発明し、それに置き換ったため原材料としての除虫菊栽培はなくなっています。

 そして「けし」がこの「県勢歌」に重要作物として登場します。有田、日高地方はかつて日本一の「けし」栽培地。明治時代からの栽培の歴史があります。アヘンは医薬品モルヒネの原料として栽培が推奨され、戦時中に最も多く製造され、戦後も広川町、由良町、日高町、では栽培され続け、由良では1970年頃まで稲の裏作としてケシ栽培、アヘン製造が行われていました。それを物語る写真や特殊な栽培農具が由良町神谷の旧白崎中学校2階「ゆらふるさと伝承館」に保存展示されています。

 純白のケシの花は重い戦争の歴史を背負っています。アヘンが日中戦争の中でどんな役割を果たしたのか、なぜ和歌山県が日本一の栽培地になったのか、「和歌山薬草試験場」が日高川町土生に置かれた理由などまた改めてご紹介させて頂きます。

              南無阿弥陀仏   南無阿弥陀仏

                            三宝寺住職 湯川逸紀










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