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アヘンと当地のけし栽培(1) 


 1840年から2年間にわたって、清とイギリスとの間で起こった「アヘン戦争」は、イギリスがインドで生産させたアヘンを大量に清に持ち込もうとして仕掛けた理不尽な戦争であった。

 日本近現代史を研究した故江口圭一愛知大学教授は、アジア太平洋戦争における日中戦争とアヘンの関わりを究明された。それによると、日本は1932年の満州事変をきっかけに「満州国」を建設し、2年後には内モンゴルに建てた傀儡政権のもとで、莫大な量のアヘンを生産し、中国全土にアヘン・麻薬を流しつづけ、その害毒はじつに戦慄すべきものであった。敗戦時に資料の多くが焼却されたため、その全体像はあきらかではないが組織的にアヘンの製造、流通を手がけることで利益を上げ、またそれには陸軍の関東軍と支那駐屯軍が深くかかわっていたことが徐々に明らかになっている。これは日本が日中戦争においておこなった最大の国家犯罪であると教授は指摘している。

 アヘンは、けしから採取した液汁を凝固させたもので、黒褐色で特殊な臭気(アンモニア臭)と苦みがある。アヘンの乱用は、精神的、身体的依存性を生じやすく、常用すると慢性中毒症状を起こし、脱力感、倦怠感を感じるようになり、やがて精神錯乱を伴う衰弱状態に至る。このアヘンを生成して作られるモルヒネは 麻薬の一種であり、強い依存性をもっている。そのため、法律でも、使用や所持、製造に対し厳しい規制が設けられている。一方で、適切に処方や服用をした場合、依存は起こらず強い鎮痛効果を期待できるため、現在も医薬品として重要な役割を果たしている。また、麻薬ヘロインはこのモルヒネを精製して作られる。

 江口圭一教授によると、日本国内でケシの栽培が始まったのは明治時代後期。日本は、アヘン吸煙が根付いていた台湾を統治する際、アヘン中毒者へ対応する策として「漸禁政策」で臨み、専売制を始めた。その一環として国内で栽培が始まり、アヘン価格の高まりなどもあり、大阪府を中心に栽培が盛んになったという。

 昭和初期、和歌山県は日本一の生アヘンの生産地であった。有田郡、日高郡が中心であったが、熊野地方でも生産された。1928年(昭和3年)の統計だと和歌山県の農家から出荷された生阿片の量は8091.8kg。全国の生産量の63.1%に上った。 栽培者には生産されるアヘンは「医薬用モルヒネ原料」とされ、戦争の激化とともに増える傷病兵の治療に用いるとして生産増が求められた。
 以前ご紹介させて頂いたようにケシはその花が戦前から「紀州の三白」の一つに数えられるように和歌山にとっては重要な作物であり、明治以来栽培適地とされた有田・日高地方でのケシ栽培とアヘン製造の量的、質的な安定的確保が期待された。

 1939年10月、ケシの病害(べと病、葉枯れ病など)に対する専門的な研究所とし和歌山薬草試験場が大阪衛生試験所薬用植物栽培試験部の圃場として、現在の日高川町土生に作られた。この地が選ばれたのはこの地域は古来よりけし栽培が盛んであったことがあげられる。地元には「むかし、各地でケシを植えてみて、一番よくはえたところに試験場ができたと聞いている」「戦争中はここで作られたアヘンが陸軍に納められていたそうだ」といった思い出話が出ている。ここでのケシ栽培の研究は戦後まもなく閉じられ、一般の薬用植物の研究拠点となるが国の機構改革の中で、2012年3月に閉鎖された。最後のこの施設の名称は「独立行政法人医薬基盤研究所薬用植物資源研究センター和歌山試験場」であった。

 和歌山が日本一のケシ栽培地となった理由は、暖地で稲の裏作として植え付けることができる(二毛作が可能)。ケシの成長期3月〜5月は好天が多く、日照時間が長い。水はけがよい田畑が多い。明治時代から大阪と並んでケシがよく栽培されおり、栽培技術に長けた農家が多かった。このようなことを以前、地元で開かれた日中友好協会御坊支部が主催した「アヘンシンポジウム」で薬草試験場の先生からお聞きした記憶がある。

 医薬品としてのモルヒネの需要を満たすため戦後も県内でケシ栽培は続く。しかし広川町では「戦後も5年間ほど、ケシを栽培していた。ただ、戦前と比べて大きな利益を得られるわけではなかった。戦前は良かったと、」と振り返るお年寄りがおられる。由良町でも1970年くらいまでは一部で栽培されていたが、その後栽培する人はほとんどいなくなったという。

 1964年に制定された合併前の由良町立由良小学校校歌(作詞:西川好次郎)の3番の歌詞を見ると、「夢のせて 夢のせて けしの花さく里が呼ぶ いつも伸びゆく若木から とどけ空までこの願い ああああ ぼくらわたしら 希望の子 由良小みんな希望の子」とある。

 かつてケシは、当地を代表する商品作物であった。 いまでもアヘンづくりに使用されたナイフ、ヘラ、受け皿、乾燥機などは農家の納屋に残っていることがある。今、由良町神谷の「ゆらふるさと伝承館」には地域の歴史教材として農具展示室の一角にそれらが保存公開されている。


   


  「ピースあいち」のホームページで愛知県立大学名誉教授の中国史の研究家倉橋正直先生が和歌山県有田郡における戦時中のアヘン栽培と子どものかかわりを詳しく報告されています。次回にそれをご紹介しましょう。

              南無阿弥陀仏   南無阿弥陀仏

                            三宝寺住職 湯川逸紀










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