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福井県から少年兵が美浜町本ノ脇の「壕堀り」に 


 『 本土決戦備え銃座造り続けた19歳の夏 福井市の濱内静さん、和歌山県の山中で 
「戦争始まったときから勝てるはずもないという気持ち」』
【福井新聞D刊 2023.8.15号見出し(福井新聞HPより)】


 「御坊の近くに『煙樹ガ浜』というところがありますか?そこで戦時中、陸軍兵士が銃座を造っていたという事実はありますか?」
 携帯の着信履歴を見ると、8月8日の午後3時すぎ、福井新聞編集部なるところから私にこんな問い合わせがありました。ことの次第はこうです。福井新聞は福井県内で広く読まれているローカル紙。そこが、毎年終戦記念日の特集にむけて戦争体験談を広く県内に募集されるようです。今年、元少年兵が戦争末期、煙樹ガ浜に近い山での「銃座造り」に関わった思い出を投稿されたようです。新聞社はそれを取り上げ、記事にするため事実関係を確認するため私に問い合わせてきたようです。

 私も属する日高の平和委員会は日高平野に残る「戦争遺跡」として地下壕、トーチカ、砲台跡などを数多く調査してきています。この問い合わせには、おそらく元兵士が関わったのは煙樹ガ浜を直下に見る美浜町本ノ脇の地下壕群であろうと答えておきました。煙樹ガ浜は当時の陸軍が大阪攻略のために米軍が上陸してくる可能性が最も高いと想定した場所です。今、そこを臨む西山の山麓・中腹に数多くの地下壕が残されています。コンクリートで固められたトーチカも存在すると伝わりますが、現在そこへの道はブッシュに阻まれ、たどり着くのは困難です。

 この元兵士は福井で入隊するも、大阪の部隊に配属され、御坊周辺での「銃座造り」に従事したようです。何年か前の聞き取り調査で、地下壕のありかに詳しい本ノ脇地区のO氏から、「以前、福井県から高齢の方が、お孫さんをつれてこの地に来られ、戦時中ここで壕を掘ったことを話していましたよ」とお聞きしました。福井新聞の問い合わせに対してこのことを伝えたところ、投書のご当人に確かめていただきましたが、当該の方ではないとのことでした。当時この部隊には福井出身の方が多くおられたようです。

 また、私どもの寺の御門徒で日高町小中在住のS氏(当時小学生)の証言では、昭和20年、当地でも空襲が頻繁にあったころ、40代の後半であったお父さんが毎日のように西山での「豪堀り」に動員されたと語っています。今夏、日高町9条の会が開催した戦争資料展に、戦時中の過酷な思い出として和田国民学校低学年の時、この銃座造りのための資材としての砂利をおうこで担って運んだ様子が詳細に書かれているものがありました。
 まさに国民総動員、幸い米軍の上陸がなかったものの、もし、ここから上陸してきたら、日高平野全体が戦場化、沖縄戦のような様相が現実になったことでしょう。西山、入山、丸山、野口に多く掘られた地下壕が果たして米軍の侵入を食い止めることができたでしょうか。疲弊しきった日本の軍隊があの強大な米軍に対抗できるとは思えません。住民を巻き込んだゲリラ戦のなかで多くの「いのち」が失われることは必至でありましょう。

響け!平和の鐘!御坊の空に!

  毎年、本願寺教団は9月18日に、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」を行っています。そしてそれにあわせて全国の寺院に「平和の鐘」として梵鐘や喚鐘を撞くよう呼びかけています。御坊組では、この日1:00に日高別院に集まり、1:30より東京の法要開始に合わせて大梵鐘を撞きます。なお、この日は、あの15年におよぶアジア・太平洋戦争の発端となった満州事変柳条湖事件(1931年)勃発の日です。

                 南無阿弥陀仏   南無阿弥陀仏

                               三宝寺住職 湯川逸紀

    






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