(過去の「雑色雑光」はこちらからどうぞ)

「学徒出陣」八0周年 ―平和のための遺書・遺品展― 


 東京本郷にある「わだつみのこえ記念館」から会が主催する表記の催しが今秋、東京有楽町「朝日ホール」で開かれることを伝えるチラシが私どもに送付されてきました。「学徒出陣」といえば雨の中、神宮外苑陸上競技場での壮行会が映像としてよく流れます。それは、1943(昭和18)年10月21日、ちょうど80年前のことです。年齢を考えれば私には次がありません。参加してきました。

 「きけ わだつみのこえ」や「わだつみのこえ記念館」については2021(令和3)年4月の当HP「雑色雑光」欄で触れています。

 80年前、私の叔父(母の3歳下の弟山根明)は京都の旧制三高に学んでいました。翌年の東大は10月入学、文学青年であった彼はその文学部社会学科に入学。戦局は厳しく、わずか2ヶ月で学業を断ち、12月には入営、中国戦線に派遣されました。ところが、生来あまり強くない身体に、栄養失調症とマラリア禍が襲い翌、昭和20年7月に湖南省長沙の野戦病院にて戦病死。まだ20歳でした。しかしその公報が届いたのは戦後の21年5月、京都で無事の帰還を待ちわびていた両親と姉2人の悲嘆は如何ばかりか、明さんの姉である母は生涯、家族に弟のありし日と無念を語り続けました。

 私の祖父山根徳太郎は、学徒戦没者の遺稿集『きけ わだつみのこえ』の刊行をきっかけとして1950年(昭和25年)に結成された日本戦没学生記念会 (「わだつみ会」はその略称)に協力し、『きけ わだつみのこえ』やそれに先行した東大戦没学生手記編集委員会が発行した『はるかなる山河に』に長男明さんの遺稿を送っています。また後に東大協同組合出版部が発刊した「わだつみのこえに應える」には遺族として一文を寄せています。

 15年ほど前、母の実家から明さんの遺品(とはいっても小中高校時代の絵画作品やアルバム、成績表など)の保管を私が頼まれ、それらを整理する中で身内の戦争被害を痛切に感じるようになりました。4年ほど前、東大赤門前にある「わだつみのこえ記念館」も訪ね、祖父が預けた明さんの遺稿も読ませていただきました。
 明さんはもともと理系が得意で家族は三高進学は理科にすると思っていたようですが、哲学に関心が深まり文科に進学したようです。これに関しては、戦局の悪化でやがて大学生にあった徴兵猶予が文科には適用されなくなることが予想されている中での進路選択となったため、家族はみな強く反対したようですが、本人は「社会学」を究めたいと志望を変えなかったと母は嘆いていました。

 今回、会場に展示された明さんの遺稿は「東都遊学備忘録」と自らが題した大学入学のため上京して過ごした2ケ月間の日記です。たわいない日常の雑感、戦時下の帝都の様子、それに哲学論文の下書きのようなものもあります。日による長短はいろいろ、細かい字がページを埋めており、金銭出納簿や住所録にもなっています。

 11月5日の終わりに次のような一文があります。

 鶴見祐輔の『米国国民性と日米関係の将来』を読む。流石慧眼に大正11年早くも日米関係の前途不安なるを警告す。面白き書なり。今の日本人にして米国を理解せるもの幾許ぞ、否理解せんと志せる者すら幾人をかぞふべき。学徒にありても如何?敵を知り己を知らざれば勝を得がたし。嗚呼ー。

 わずか2ケ月間の大学生活、東京暮らし、残された文章は多くありませんが、深い思索の跡はとても二十歳前の学生のものと思えません。叔父には学究の徒としてもっともっと長く生きる時間を与えて欲しかったと切に思います。

  この日の展覧会、さすが大東京での開催、多くの来場者を迎えていました。どの遺書も青春のまっただ中、戦争と死に向き合って紡がれた学徒の文字は私の身体を打ちのめします。その重い文章を現わだつみのこえ記念館長 岡田裕之氏は記念誌の中で”血で書かれた文字”と指摘されます。

 私が預かる三宝寺は門徒数50軒あまりの小寺、しかし、その過去帳には昭和13年から20年までに14名の戦死者が記載されています。妻や子供を残しての戦死者もいます。このことで絶家された家もあります。戦時中国家の戦争政策に抗い「戦争は罪悪である」と喝破した岐阜県垂井町真宗大谷派明専寺の僧侶竹中彰元師 の言葉が胸に迫ります。
 「世の中安穏なれ、仏法弘まれ」と仰った宗祖のお言葉に深く頷かされます。大切な展覧会に遇わせていただきました。

                南無阿弥陀仏   南無阿弥陀仏

                               三宝寺住職 湯川逸紀

(下の写真は6年前訪ねた明泉寺山門前)







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